今回の記事では、マズローという人が一体どんな人物だったのかを、経歴や人生の経緯はもちろん、性格や人柄なども含め簡単にまとめてみました。
1.マズローの経歴
①過酷な幼少期
マズローと言えば「自己実現」や「欲求階層」という言葉で有名ですが、彼はどんな経歴の持ち主だったのでしょうか。
彼の本名はアブラハム・ハロルド・マズロー(Abraham Harold Maslow)といい、1908年4月1日生まれです。
子供の頃のマズローは、性格は内気で、体形はひ弱なやせ型の少年でした。
当時のマズローはそのやせ細った身体に加え、自分の大きな鼻に対して非常に強い劣等感を感じていたようです。
そのようなことから、あまり友達と積極的に関わることもなく、また当時はユダヤ人に対する差別がひどかったため、父親をユダヤ人にもつマズローはそのような時代背景も相まってとても内向的な性格でした。
また、マズローは家庭環境にも恵まれておらず、父親は家庭を顧みない人物であり、母親はマズローに対しての愛着というものをまったく感じていなかったようです。
このように親からの愛情が希薄な家庭で育てられる一方で、マズローは読書が大好きな子どもでもありました。
そのため、マズローは朝早くから学校に行って一時間ほど本を読んでから学校生活を始める日々を過ごしていたという一面もあります。
そういった意味では、友達もおらず家にも居場所がなかったことは、読書をするにはうってつけの環境だったと言えるのかもしれませんね。
当時の状況を振り返り、マズロー自身は次のように語っています。
『私はおそろしく不幸な少年だった。…家庭はみじめで、母親は凄まじい人だった。…私 は友達もなく、図書館で本に埋もれて大きくなった。そんな子ども時代を送りながら、今、私が精神病でないのは不思議なくらいだ。』(エドワード・ホフマン「真実の人間」)
このような文章からも、幸せとは到底言えそうにないマズローの幼少時代が伺えますね。
②高校・大学生時代に転機が訪れる
しかし、このように人間関係の面では恵まれなかった幼い頃のマズローですが、彼の読書好きも功を奏したのか、勉学の成績は非常によく、高校生にもなると地域で最もレベルの高い高校へ入学します。
また、この頃に父親の仕事の関係で引越しをしたことで従兄と交流する機会が増え、とても社交性の高いこの従兄の影響でマズローも少しずつ友達が出来るようになってきました。
そして、マズローは高校卒業と同時にニューヨーク市立大学に入り、人文科学を専攻します。
ちなみに、当時のマズローは、数ある分野の中でも特に哲学を好んでいたようです。
しかし、大学に通いはじめてしばらく経っても、なかなか納得できる将来の道が定まることありませんでした。
そのためマズローは、他の大学への転学を何度か繰り返すのですが、そのような経緯のすえ最終的にはウィスコンシン大学に腰を据えることになります。
その一方で、マズローは両親からの猛反対を受けつつも、1927年に若干20歳で結婚をします。
ちなみに相手の女性も19歳という若さでした。
そのような環境の変化を経て、あるとき、マズローがのちに心理学の道に進むことを決心する大きな転機が訪れます。
その転機とは、とある本との出会いでした。その本はカール・マーチスンという人物が書いた『1925年の心理学』という本です。
この本を通して、マズローは最新の心理学と出会うことになり、その中でも「行動主義心理学」の 創始者である ジョン・B・ワトソンが書いた論文に感激しました。
そしてマズローは、心理学を自分の生涯の仕事にすることに決め、ウィスコンシン大学でも徹底的に心理学を勉強することになります。
③心理学者としての道を歩み始める
そしてその後、マズローは心理学から派生する形で人類学や性科学なども積極的に学ぶ一方で、プライベートでは二人の娘を授かることになります。
特にこの二人の娘の誕生に関しては、マズロー自身が『父親となることで私の全人生が変わった』と言うほどに大きなインパクトをもたらした出来事であったようです。
事実、マズローは幼い娘たちと交流するなかで、それまで支持していた「行動主義心理学」の考え方に疑問を持つようになります。
また、このように子どもとの関りによって考えに変化が起こる一方で、マズローが人類学を学ぶ過程で出会った、北アメリカの先住民である「ブラックフット・インディアン」の存在も、彼にとって非常に衝撃的なものだったようです。
マズローは、彼らへのフィールドワークを通して、「人間はそれぞれ個性的な存在である一方で、人種や文化を問わず共通の人間である」ということを悟り、この事がのちにマズローの研究の方向性に多大なる影響を与えることになります。
このような経緯を経て、1943年にマズローは35歳のタイミングで「人間の動機づけに関する理論」を公に発表します。
なお、マズローはこの論文の中で「欲求の階層」という概念を初めて語り、この事により彼の名は一躍有名になります。
そしてその後は、日本でも有名な「自己実現」をはじめ、「至高経験」「シナジー」「ユーサイキア」「Z理論」といった、 今までにない考えを次々と構築していくことになります。
マズローは最初の論文を発表後も精力的に心理学者としての活動を続け、1967年にマズローはアメリカ心理学会の会長に抜擢され、1969年には、スタニスラフ・グロフと共にトランスパーソナル心理学会を設立します。
そして、1970年に心臓発作を患い、その62年の生涯に幕を下ろすことになるのです。
この突然死により、マズローの打ち立てた心理学は、残念ながら未完のまま終わってしまいます。
さて、ということで、マズローの経歴は以上のようなものになりますが、これを簡単に年表にすると下記のようにまとめられます。
1906年 ニューヨーク・マンハッタンに生まれる
1927年 妻バーサと結婚する
1930年 ウィスコンシン大学卒業
1931年 同大学で心理学の修士号を取得
1937年 ニューヨーク市立大学で教授として着任
1943年 「人間の動機づけに関する理論」発表
1951年 ブランダイス大学に着任
1962年 ヒューマニスティック心理学会を設立
1969年 トランスパーソナル心理学会を設立
1970年 心臓発作により他界
2.性格と人柄
①愛情深く温かい
さて、このような経歴をもつマズローですが、彼はどのような性格だったのでしょうか?
そのヒントとなる情報として、マズローの『創造的人間』という著作にあるいくつかの記述を見てみましょう。
『マスローに会った者が誰でも感じたことは、彼が愛と知の人であったことである。彼の学問は愛から始り愛に終ったといってよい。【中略】マスローの研究の推進力はこの人間愛にあった。単なる求知心からでは決してなかった。』
この文章から、マズローが心理学者・研究者として知的さや聡明さを持っていただけでなく、愛情に溢れる人物だったことが窺い知れますね。
なお、マズローが愛に満ちた人物であったことが分かるこれ以外の文章に同じ書籍内に下記のようなものがあります。
『写真をみても判るように、峻厳な才人というより、温厚な慈愛にみちた容貌である。彼は人生を愛し、自然を愛し、天性心温かく、子どものような幸福感にみちあふれ、 その幸福を人にも分かち与えた。』
たしかに、一般的に最も有名なマズローの顔写真も、彼の愛情深さがにじみ出ていると思います。
ちなみに、彼のインタビュー動画にもチラホラ笑顔で語るシーンがあるので、良かったら下記リンクからご覧ください。
②童心を忘れない無邪気さ
また、マズローの性格が分かる内容として、同書には下記のような記述もあります。
『彼は「子どものように無邪気な驚きにみちた精神」 の持ち主で、 何事にも興味と魅力をおぼえ、いつまでも若人の心を失わず、驚いたり感心したりしてはよく眉をあげていた。いつでも誰からでも学ぶ心構えがでてきていた。これこそ彼のいう創造性の主要な特徴でもある。偉人はいつまでも童心を失わないが、マスローにもそういう趣がうかがわれる。』
マズローは、自己実現している人の特徴に「子供らしさ」や「天真爛漫さ」や「無邪気な目」といった要素を挙げていましたが、彼自身もこういった精神性の持ち主だったようです。
また、自己実現者は一様に民主的で誰に対しても平等な態度で接する傾向があるとマズローは報告していますが、マズロー自身も同じような対人関係を築いており、実際学生に対しても偉そうに振舞うような事はなかったみたいです。
ちなみに、余談ですがマズローは彼の尊敬する人物の一人としてかの有名な第16代アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンをあげていたりします。
③子ども好き
一方で、これらとは別のマズローの人柄を示す文章に、このようなものもあります。
『彼から最後に治療をうけた娘の話でも、マスローは、小娘の話にも必ず耳を傾け、彼女がマスローから教えをうけると同じく、 マスローも彼女から何かを学んでいるように感じたことである。マスローは子ども好きであったし、また子どもからも好かれた。どの家の子どもも彼の訪問を楽しみにしていた。』
つまり、マズローは相手が子どもであろうと、良い意味で対等に接することを心掛けており(あるいは自然とそのように振舞うことができ)、なおかつ子ども好きで子どもからも好かれていたみたいですね。
マズロー著作の中にも、心理学的見地から見た子どもの素晴らしさや尊さに関する記述が多く存在することからも、このエピソードは納得のいくものと言えるでしょう。
また、マズローは自身の二人の娘を心から愛していたのですが、このことも彼の子ども好きと紐づくのではないかと推測されます。
④情熱的でエネルギッシュ
ここまで見たように、マズローは対人関係においては比較的穏やかで温厚なタイプの人物でしたが、一方で情熱的でエネルギッシュな一面もあります。
マズローの研究に対する真摯さや熱量、ストイックさはマズローの書いた本を読むと文章からもギンギン伝わってくるのですが、そのことが分かる記述に以下のようなものがあります。
『マスローは信じがたいほど柔らかな内気な、穏やかな声で話したが、きわめて辛辣な批評をその声につつみた。会う人ごとに、自分の思想、信念を熱意をこめて伝えた。彼と会って帰る人は、いつもエネルギーを得、足が地を離れる思いがし、生きかえったように感じ、自分の仕事と人生に喜んで身を捧げようという気持になった。』
マズローが仕事における動機づけやモチベーション理論を提唱していたことは有名ですが、他ならぬ彼自身も心理学者として類まれなる情熱をもって仕事に従事していたようです。
自分の仕事への意識が高く意欲的な人物の仕事ぶりはときに周りの人も巻き込む程の影響力をもつものですが、マズローはまさしくそのような人物だったのではないでしょうか。
⑤創造的で肯定的な理想の師
最後のマズローの性格的特徴は、彼が非常に創造的で、なおかつ物事を肯定的に捉え、それらを踏まえて理想的な師としての性質を兼ね備えていたことです。
マズローの語る自己実現の理論や超越論の重要キーワードの一つに「創造性」というものがあることは意外と知られていませんが、その背景には人間性への肯定的な見方があります。
この肯定的に人間を捉える姿勢はマズロー心理学の特徴の一つであり、それまで主流だった心理学が人間の欲求を否定的に捉えていたこととの対比にも表れています。
また、マズローは心理学的に理想と言える教育論を展開していますが、その教育論の屋台骨となるエッセンスにも「創造性」や「肯定的受容」があり、そういった意味ではあらゆる教育の理想像とも言える師の在り方を、マズロー自身が体現していたと言っても過言ではないでしょう。
このような事も踏まえ、これまで触れてきた四つの性格的特徴を含めたマズローの人間性が表現された文章が下記になります。
『マスローは人間の「自己実現」を説き、各人が「創造性」を実現することを強く主張したが、 彼が人に接する態度にもそれはよくあらわれていた。相手が子どもでも、婦人でも、学者でも、 労働者でも、誰をも自分と同列において見た。人を見下すことは絶対なかった。どんな人でも、 消極的否定的な面から見はしなかった。その人の自我、理想、至高経験、完全な自己実現の面からその人を見て、すすんで励ましを与えた。彼には万人の心を開く才能があり、創造性を育てる天性の教師であったわけである。その親切、単純、同情心の底には、彼の人間愛、人間に対する信頼、学問への信念がつよく脈うっていた。学問と生活が一つになっていた。』
つまり、マズローはどんな相手でも否定的な視点で見るのではなく、その人の持つ可能性や眠っている魅力に目をやり、相手の内に秘めたる創造性やオリジナリティを引き出すようなコミュニケーションをとっていたのでしょう。
その態度は、一方的に自分の正解を押し付けるのでもなければ、高圧的に相手をコントロールしたりするものではありません。
その背景にあるのが、彼の根底に据えられている人間という存在への愛情や思いやりや優しさだったのだと思います。
自己実現というものはありのままの自分を受容し肯定するところからはじまりますが、この概念の根っこにあるものが、これまで見てきたマズロー自身の人間性だったのでしょう。
そういった意味では、自己実現という概念も含めたマズロー心理学というものが人間をより人間らしくポジティブにしてくれる側面を持つことは、愛情深く器の大きい豊かな人柄を兼ね備えたマズローだからこそ構築できた心理学であるようにも思えます。
このような背景も含めて、マズロー心理学に眠る宝物を自分の人生で実際に活かすことで、充実した毎日を過ごしたいものですね。