欲求階層

欠乏動機と成長動機とは?マズローが語る7つの違いと見分け方

自己紹介

 

皆さんは「欠乏動機」や「成長動機」という言葉は聞いたことがありますか?

マズローは、「欲求階層」や「自己実現」の説明の際に、この2つの動機の違いについて述べているのですが、実はこの話を理解することはメチャクチャ大切なんです

なぜなら、「欠乏動機」と「成長動機」の違いを理解しないと、本当の意味で欲求階層や自己実現について理解したことにはならないからです。

しかし、多くの方がその事実を知らず、またそれと同時に、2つの動機の違いをちゃんと把握できている人はかなり少数派でしょう。

というか、そもそも論として「欲求」と「動機」を混同している人も多いようなんですよね。

そんな、基本的なことなのに意外としっかり理解できている人が少ない「動機」について、マズローは実際どう考えていたのかをサクッとまとめました。

自分のなかのモチベーションが、「欠乏動機」なのか「成長動機」なのか見極めることで、自分にとって本当に望ましい選択を選ぶことが上手になりますよ。

 

1.「動機」と「欲求」の違い

 

さて、冒頭でも触れましたが、「欠乏動機」と「成長動機」の違いについて理解する前に、まずは「動機」と「欲求」の違いを整理する必要があります。

というのも、マズロー自身がこの二つの言葉を明確に使い分けていたからなんですよね

ちなみに、マズローは「欠乏動機」「成長動機」という言葉とは別に、「欠乏欲求」「成長欲求」という言葉も使っていて、この四つの言葉をちゃんと整理しないと欲求階層や自己実現の話を正確に理解したことにはならないというのは、意外と知られていないことだったりします。

つまり、これら「動機」と「欲求」を混同すると、欲求階層や自己実現という概念を通してマズローが本当に伝えたかった事を誤解することになってしまうんですよね

またそれと同時に、「動機」と「欲求」をごちゃ混ぜにしてしまうと、自分の心や他者の気持ちを正確に把握できないというデメリットもついてきちゃいます(笑)

だからこそ、マズローもこれらを明確に分けて人の心の研究していたのでしょう。

 

さて、前置きが長くなってしまいましたが、「動機」と「欲求」の違いについての結論を言いましょう。

その違いを一言でいうと、

『「動機」とは、「欲求」が生じる原因であり「火種」のようなものである』

と理解してしていただくと分かりやすいと思います。

なお、これだけではよく分からないと思うので、もう少し補足をさせていただきますね。

 

まず参考として、両者を辞書を引いてみると、

「動機」=「人が意志を決めたり、行動を起こしたりする直接の原因」
「欲求」=「強くほしがって求めること」

という説明が一般的なようです。

なお、マズローはこの二つの言葉を原文においては

「動機」=「motivation(motivated/motivaitonalなど含む)」
「欲求」=「needs」

という英単語を使っています。

このようなことを踏まえて、両者の違いを理解するときには、具体的な例文をつくるとスゴク分かりやすかったりします。

要は、「私はAという動機により自分の欲求を満たそうとしている」であったり「Bという動機に基づいて満たされるのがこの欲求である」という感じで両者の単語を使えるということです。

こういった例文に落とし込むと、「動機」と「欲求」の違いがよりスッキリするのではないでしょうか。

 

この事をもう少ししっかり理解するために、更に具体的な事例で言えば、たとえば「料理を学びたい!」という欲求があり、料理教室に通い出した人が3人いたとします。

しかし、同じ欲求に基づいて行動を起こした3名が料理教室に通おうと思った理由は、それぞれでまったく違います。

Aさんが料理を学ぶ動機は「結婚したいから」であり、Bさんが料理を勉強する動機は「資格を取りたいから」であり、Cさんの動機は「自炊のレベルを上げたいから」といった感じで、3人ともバラバラ。

つまり、「欲求」は全員同じ「料理を学びたい」という一括りでまとめられても、その背後にある「動機」は全然違うものになっているんです

あるいは、別の事例で言えば、「お金が欲しい!」という欲求の根底にある動機は、「美味しいご飯が食べたいから」、「いい家に住みたいから」、「老後の心配をしたくないから」、「子どもにおもちゃを買ってあげたいから」、「自由を感じたいから」など、これもまた千差万別ですよね。

つまり、これらの内容も含め「動機」と「欲求」の関係性を一言でまとめれば、「動機とは欲求を満たしたいと思う原因(理由)のこと」と定義できると思います。

言い換えれば、「動機がある」⇒「欲求が生まれる」という流れなんですよね。

 

さて、ということで前提としての「動機と欲求の違い」を把握したうえで、この後は本題の「欠乏動機」と「成長動機」の違いについて紐解いていきましょう。

 

成長動機と欠乏動機

 

2.「欠乏動機」と「成長動機」の違い

 

さて、このコラムの主題である「欠乏動機」と「成長動機」の違いについてですが、ここでは結論から言うと、その違いについてマズローは7つの観点から説明してくれています

その7つの違いとは

(1)衝動に対する態度の違い
(2)満足の結果における違い
(3)満足の過程における違い
(4)満足した結果の心身の健康面の違い
(5)刹那的な満足か持続的な成長か
(6)人間関係のつくり方における違い
(7)他者の手による満足か自己探求による満足か

の7種類です。

ということで、これらの観点について、ひとつずつ紐解いていきましょう。

 

(1)衝動に対する態度の違い

 

一つ目の欠乏動機と成長動機の違いについて、マズローは「衝動」つまり「欲求を満たしたい!」という気持ちについて、次のように説明しています。

 

『生理的欲求、安全、愛情、尊重を求める欲求は事実多くの人々にとって厄介者で、精神的にトラブルメーカーであり、問題製造者と言える。…【自己実現においては】これらの衝動が望まれ、すすんで迎えられ、また楽しく喜ばしいものであること、わずかではなくて、むしろ多くを求めていること、たとえ緊張をつくるとしても、喜ばしい緊張であることである。』(「完全なる人間」)

 

これは少々読みにくい文章なので、要点が掴みにくかったかもしれませんが、つまり、ここでマズローが言いたかったことは、「欲求を満たしたい!」という気持ちが「やっかい」なものであるのが欠乏動機であり、欲求を満たすこと自体が「やりがい」であるのが成長動機であるということです

 

たとえば、「お腹空いたけどご飯食べるのメンドくさい…」というように欲求満足に対応することに消極的なのが欠乏動機であり、「今日は何を食べてどうやってお腹いっぱいにしようかな♪」や「マジでお腹すいた!美味しいごはんが早く食べたい!たくさん食べたい!」といった感じで欲求満足に積極的な気持ちで対処しようとしている場合は成長動機といえるでしょう(笑)

言い換えれば、欲求を満足させる「べき」であったり、満足させ「ねば」であったり、満足させなければ「いけない」というのが欠乏動機であり、欲求を満足させ「たい」のが成長動機とも言えると思います。

このような視点で自分の動機を振り返ると、それが「べき」「ねば」などのような義務・犠牲・我慢にもとづくものなのか、そういった枠組みに押し込められていない純粋な望みなのかが明確になるのではないでしょうか。

 

なお、先ほどの引用文だけを見ると、マズローは生理的・安全・愛情・尊重の四つの欲求は欠乏動機であり、自己実現の欲求のみが成長動機であると言っているようにも思われますが、どうやらそうではないようです。

というもの、「成長動機に基づいた生理的欲求がある」ということを明確に述べているからなんですよね。

その点も含めて、続いてはマズローが「欠乏動機と成長動機の相違」のなかで二つ目に挙げている内容をみてみましょう。

 

(2)満足の結果における違い

 

マズローは、欲求満足がもたらされた結果についても、欠乏動機で欲求を満たした場合と成長動機で欲求を満たした場合とでは相違があると説明しています。

まず、欠乏動機によって満たされた欲求は休止到来(一度満たされたら一定期間休止)するという特徴があります。

要は、欠乏動機によって欲求を満たすと、一旦はその欲求が落ち着くということですね。

このことは、多くの方がご自身の経験からも分かると思います。

一方で、それと比較した成長動機による欲求の満足について、マズローは次のように説明しています。

 

『成長動機が優位を占めている人びとを調べると、動機についての休止到来の考え方はまったく無用となる。このような人びとにおいては、満足が動機を弱めるよりもむしろこれを強める。刺激をしずめるよりも、むしろたかめる。食欲は強められ、たかめられるようになる。それらはますます高じてきて、願望は弱まるどころか、たとえば、教育などについてこのような人は、多くを望むようになるのである。このような人にとっては、休止に達するよりもむしろ、一段と積極的になる。成長への欲望は、満足によってやわらげられるどころか、かえってそそられる。』(「完全なる人間」)

 

つまり、欠乏動機で満足した欲求は、休止到来するという意味において満たしてはまた不満になるということを繰り返す一方で、成長動機で満たされた欲求は、そこから更に強まるため終わりがないということです。

これは、欠乏動機が「上下する動きを繰り返す波型」であるのに対し、成長動機が「右肩上がりに上がり続ける直線型」であるとイメージすると分かりやすいのではないかもしれませんね。

そういった意味では、成長動機にもとづくことは「強欲」「欲深い」というネガティブなニュアンスではなく、「耐えることのない向上心・探究心・好奇心」といったようなもっと前向きな意味合いです。

言い換えれば、成長動機にもとづいてゴールにたどり着くことは、その到達(達成)によってその先の更なる途上が見えてくることで、更に前に歩みを進めるようになるという特徴があるとも言えるでしょう。

 

先ほどの料理の例で言えば、Aさんの「結婚したい」という動機が欠乏動機の場合は、きっとAさんは料理上手になって結婚ができればもうそれで料理への興味は消滅するでしょうし、その一方で「自炊のレベルを上げたいから」という動機だったCさんは、それが成長動機なのであれば最初の目標であるレベルに達したとしても、さらなる自炊力の向上へと邁進するということですね。

なお、Aさんの「結婚したい」という動機が成長動機であることももちろんあれば、Cさんの「自炊レベルを上げたい」という動機が欠乏動機である場合もあるというのも忘れてはならないポイントです。

同様に、Bさんの「資格をとりたい」という動機の背景にあるのは、「仕事を失い路頭に迷いたくない」などのような欠乏意識であるかもしれませんし、「自分の新しい可能性を開いていく」といったような成長意識かもしれません。

要は、その動機が「欠乏動機」なのか「成長動機」なのかは、自分自身にしか分からないということです。

このような意味でも、自分の動機をしっかりと把握することがとても大切なんですよね。

そうでないと、欲求がいつまでたっても満たされないときに、その理由がどこにあり、どうそれに対応すべきなのかが全く分からなくなってしまうからなんです。

 

ちなみに、マズローは永遠に満たされない悲惨な欲求のことを「神経症的な欲求」と呼び、その欲求で生きることに警鐘を鳴らしていたのですが、詳しくはこちらの「生理的欲求」についてのコラムのなかで触れているので、後程お読みいただければと思います。

 

そして、これらのことも踏まえて、「欠乏動機」と「成長動機」の2つ目の違いを先ほどのイメージ図に当てはめると次のようになるかと思います。

 

欠乏動機 成長動機

 

また、先程の引用文にもあった、成長動機により強められる「食欲」や「知る欲求」(マズローは「知る欲求」を人間の基本的欲求に入れて説明していた時期もあります)などは特に子どもに顕著に見られる現象と言え、このことからも自己実現の欲求以外の欲求でも「成長動機」に基づくことがあるということが言えますね

 

(3)満足の過程における違い

 

欠乏動機と成長動機の3つ目の違いとしてマズローは、同じ欲求でもそれが欠乏動機によるものか成長動機によるものかによって「欲求満足までの過程」においても違いがあると述べています。

ここで、次のような引用文を見てみましょう。

 

『活動は本質的にそれ自身のために楽しんでおこなわれるか、それとも望ましい満足をもたらす手段のために価値をもつかである。後の場合は、活動がもはや成功しないとか、有効でない場合には、その値打ちが失われ、早晩喜ばしいものではなくなる。全く楽しまれずに、ただ目標のみが望まれていることも多いのである。』(「完全なる人間」)

 

この内容は、ランニングをする人を事例にしてみると分かりやすいと思います。

たとえば、ランニングをしているDさんとEさんがいたとします。

Dさんのランニングをする目的は「痩せる」というもので、Eさんがランニングに取り組む理由は「走るのが気持ちいいから」です。

そして、言うまでもなく、「痩せる」という目的のためにランニングをしているDさんは、一生懸命ランニングしても全く痩せないことが明らかになれば走ることはしなくなるでしょう。

一方で、ランニング自体を楽しんでいるEさんはどんどんその深みにハマっていきます。

つまり、同じランニングでも、「痩せたい(痩せることで何かしらの空白を満たしたい)」という欠乏動機でランニングしているDさんにとってランニングはただの手段でしかありませんが、「もっと充実したランニングをしたい」という成長動機で走っているEさんは、ランニングをすることそれ自体が目的であるということです。

 

また、「痩せたい」という欠乏動機でランニングしているEさんは、仮に瘦せられたとしてもすぐに別の空白を埋める必要がでてきたり、満たし方は違えどその満足を維持するための手段としての苦行をずっと続ける必要があると言えるでしょう。

これは、同じ円周を延々とぐるぐる回り続けるようなイメージですね。

その一方で、成長動機でランニングするEさんは、そのさらなる高み(奥行き・深み)を目指して喜びや楽しみと共にどこまでも進んでいきます

むろん、どちらの方が成果が出やすいかは言うまでもないですよね。

このようなことから、「欠乏動機」とは「手段的」である一方で、「成長動機」とは「目的的」と言い換えてもいいと思います。

 

ちなみに、自分の普段の行いを一つピックアップして、それが目的達成のための手段に過ぎない欠乏動機なのか、それ自体が目的になっている成長動機なのかを振り返ってみると、自分の心への理解が深まると思いますよ。

特に、いま自分がしている仕事が「手段的」なものなのか「目的的」なものなのかを見極められると、今までとは違った新しい発見があるハズです。

要は、仕事をすることそれ自体が目的になのか、あるいは何か別の目的を達成するためだけの手段に過ぎないのかを自分に問いかけると、きっと何かしらの気づきがあるのではないでしょうか。

 

(4)満足した結果の心身の健康面の違い

 

マズローは、健全なかたちで欲求を満たすことが心身の健康をもたらすと述べているのですが、それと併せて、欠乏動機と成長動機のどちらで欲求を満たすかによって、欲求満足の結果もたらされる健康の性質が違っていると述べています。

このことについては、次のような端的な表現で触れています。

 

『欠乏動機をみたすことは、病気を避けることになる。成長動機の満足は、積極的健康をつくる。』(「完全なる人間」)

 

この一文から分かることは、「不健康な状態」を「不健康でない状態(正常な状態)」に戻すのが欠乏動機であり、「健康な状態(正常な状態)」を「更に健康な状態」にするのが成長動機であるということでしょう。

これを別の言葉で言い換えれば、欠乏動機で欲求を満たすことはマイナスをゼロにすることであり、成長動機で欲求を満たすことはゼロをプラスにすることであるとも言えると思います。

あるいは、成長動機で欲求を満たすことは、もともとのマイナスをいきなりプラスにもっていく可能性があるとも言えるかもしれません。

いずれにしろ、欠乏動機による欲求の満足はあくまで元々の空白を埋めるだけで、それ以上のものは何ももたらさないということです。

 

なお、この事に関してはマズローは別の切り口からの考察の際に、欠乏が満たされた結果として得られる快楽は「低い快楽」であり、それによってもたらされる緊張喪失は「気休めに過ぎない」とも述べています。

これは、自分の心身の本当の健康を目指すのであれば非常に重要な視点ではないでしょうか。

心の空白、空虚な感じや渇望感、あるいは欠損している感覚や乾いている感覚が自分のなかにもしあるとしたら、それは容易に欠乏動機に結びつき、マイナスをゼロにする気休めを永遠に繰り返す毎日をもたらすのでしょう。

 

(5)刹那的な満足か持続的な成長か

 

欠乏動機と成長動機のそれぞれに起因する満足の違いについて、マズローは「ゴールの違い」という角度でも説明してくれています。

まず、この事に関して欠乏動機による満足のパターンで語られた一文をみてみましょう。

 

『【欠乏の満足は、】次第次第に着実に願望や興奮をたかめ、遂には、成功と達成の瞬間に絶頂に達する。そしてこの願望、興奮、快楽の頂点から、速やかに静かな緊張解除という高原状態に映り、動機は消滅する。』(「完全なる人間」)

 

これに関しては、性欲を思い出すと分かりやすいのではないでしょうか。

生理的欲求としての性欲の満足というのは、少しずつ右肩上がりで興奮していき最後のピークを迎え、最後には性的絶頂とともに恍惚感を感じ、そして欠乏感はなくなります。

その一方で、この文章の続きとして、成長動機にはこのような満足の過程とゴールは存在しないとマズローは言っています。

 

『成長動機では、その特徴としてクライマックスあるいは極致といわれるものもなければ、オーガズム的な瞬間もない。終局の状態もなければ、漸層法的にいうと、目標さえないのである。その代り、成長は連続的で、多少とも着実に上方あるい前方へと発展するものである。…したがってこのような願望は、際限がなく、完成することもあり得ないのである。』

 

すなわち、欠乏動機は刹那的な満足をもたらすに過ぎないものであり、その一方で成長動機はそのような一時的なゴールなどはなく、持続的な更なる成長へと向かうということです。

言い換えれば、刹那的な絶頂によって満たされた感覚のある欲求は、すべて欠乏動機にもとづいているとも言えるでしょう。

このような両者の違いを知ると、先ほどの「動機のイメージ図②③」の「欠乏動機」と「成長動機」の違いもより分かりやすくなりますね。

 

(6)人間関係のつくり方における違い

 

マズローは『完全なる人間』のなかで、欠乏動機と成長動機のどちらがベースとなり欲求を満足させるかの違いを、人間関係づくりにおける「利害関係」という視点で次のように考察しています。

 

『欠乏動機の人間は、成長動機の優れた人と比べて、人に頼る点が強い。かれは「利害関心」、必要性、執着、願望が一段と強い。…基本的に欲求をみたしてくれる者として、また欲求満足の供給源として人びとをみる…人びとは、全体的、多面的な独自の個人としてではなく、役立つかどうかの見地から、みられるのである。』

 

このことを端的にまとめれば、欠乏動機に基づいている人は、他者を自分の欠乏を満たすための手段としてしか見ていないということでしょう。

したがって、相手が欲求を満足させてくれないと分かるや否やその人をゴミ箱にポイします。

その人の持つ個性や人間性をあらゆる角度から理解して寄り添おうとするのではなく、「役に立つかどうか?」というモノサシでしか評価しません。

つまり、相手を一人の人間として扱うのではなく、自己満足のための道具として利用しているだけということです。

 

なお、このことを利用される相手側の立場から見た時の視点についてマズローは、『人は「利用される」ことを好まない』と明確に言い切っています。

しかし、このようなことが理論上は頭で分かったとしても、実際にその感覚を自分の肚に落とし込み振る舞いに移せるかはまた別の話ではないでしょうか。

なぜなら、私たちは、自分ではそのようなぞんざいな扱いを相手にしていないつもりでも、実際のところはそう思いたいだけだったりもするからです。

あるいは、頭では「他者を利用してはいけない」と理解していても、心がちゃんとついてこないことも珍しくありません。

そういった意味では、家族・友人・職場の同僚などといった身近な人を思い出しながら、「自分に何かを与えてくれるから付き合っているかどうか」「その人がこちらの要求に応えてくれなかったとしても繋がりをもち続けるかどうか」という視点で今の人間関係を見直すと、自分の本当の姿がよく分かると思います。

そして、こういった欠乏動機ではなく、成長動機に基づいて他者と関わる人について、先ほどの文章に続く形でマズローは次のように話しています。

 

『まったく、利害関係をもたず、無欲で客観的・全体的に他人をとらえることができるのは、かれらからなにも求めようとせず、ただ、かれを求めている場合にのみ可能である。したがって、自己実現する人びと(あるいは自己実現の瞬間)にしてはじめて人間全体についての固有の審美的な理解ができるのである。さらにまた、自己実現をする人びとにしてはじめて、有用性の感謝にもとづくよりも、観察を受けるものの客観的・本質的な特質に対して、是認・賞賛・愛情を与えるのである。…その人が愛情を表明するからというより、その人に愛する価値があるから愛するのである。』

 

この文章は、本当に多くの気づきを僕たちにもたらしてくれるのではないでしょうか。

つまり、自己実現する人は、欠乏動機の人のような利害関係を求めておらず、それ故に相手のあるがままの素晴らしさを見つけ出しているということです。

それはイコール、相手との関係性が「交換」「取引」という関係性ではないとも言い換えられるでしょう。

自己実現する人は、仮に自分が何かを与えたにも関わらず相手が何も与えてくれなくても、そんなことはまったく気にしません。

というか、「相手に与える」ことが自分の欲求なので見返りなどそもそも望んでいないと言ったほうがより正解に近いですね。

その姿勢は、相手が変化することすら求めず、ただありのままの個性で接してくれることを求めているとも言い換えられると思います。

感謝についても、「〇〇してくれたから」という何か特定の原因に基づいた感謝ではありません。

つまり、相手の本質的な素晴らしさに対して感謝することができ、また、愛することができるということです

 

そういった意味では、たとえば恋愛においても、「相手のどこが好き?」と聞かれたときに、その人の見た目や性格などの特定のポイント、あるいは具体的な行動や自分への貢献度を挙げる場合よりも、「全体的に」とか「なんとなく」とか「一緒にいて居心地がいいから」などといったように、抽象的で言葉にできないような理由によって好意を抱いている方が、その人をしっかりと認めていて、利害関係ではない本当の意味での信頼関係・愛情関係が結べていると言えるのかもしれませんね。

むしろ、成長動機に基づいている人というのは、相手を信じることにおいても特定の理由や根拠を必要としないという傾向もあるのでしょう

その人を信じるために、外見・性格・発言・肩書・経歴・立場・人脈・収入などの何かしらの根拠が必要な「信用」というレベルではない、信じるための根拠すら必要としない「信頼」が、成長動機に基づいた人が親しい人に抱く信じる気持ちなのかもしれません。

むろん、このような形で、自分が素晴らしいと思った相手を無条件で信頼できる背景には、自分自身への無条件の信頼があることは言うまでもないでしょう。

そういった意味では、成長動機のベースには、健全なかたちで育まれた自己肯定感があると言っても良いと思います。

 

(7)他者の手による満足か、自己探求による満足か

 

マズローは、基本的欲求が満たされず心理療法を受けている患者を例に出し、その欠乏の埋め方について次のように話しています。

 

『治療のために根本的に必要なことは、欠けているものを与えるか、それとも、患者が自分でこれをみたすことができるようにすることである。これらの供給は、他人から生ずるものであるから、通常の療法は、対人的なものでなければならない。』(「完全なる人間」)

 

このように、マズローは欠乏が病理的なレベルになった患者の空白を埋めるためには、自分以外の人の手を借りる必要があるとの見解をもっていました。

一方これと対比する形で、成長動機に基づく人の問題対処の仕方について先ほどの文章に続いて次のように述べてます。

 

『成長動機の人びとの問題や葛藤が瞑想的な方法によって、内面に向かい、いわばだれか人に助けを求めるよりも、自己探求によって、自分で解決されていることを忘れてはならない。』

 

なお、マズローはこの文章の少し前で、自己実現している人でも葛藤・不幸・不安・混乱があると述べているのですが、それらに対する対応の仕方はここで述べられているように「内面的な自己探求」によって「自分自身で解決される」ものであるということです。

つまり、ここでの結論を一言でいうなら、欠乏動機にもとづく行動は「他者依存的」であり、成長動機にもとづく行動は「自律的」であるということです。

欲求の満足を自分以外の誰かに頼らざるを得ないものは欠乏動機であり、自分の内面と向き合うことで満ちるものが成長動機による欲求とも言えるでしょう。

要は、目の前の不満を感じる問題・課題、あるいは苦悩や葛藤を感じる事柄への対処法が、他者に責任を押し付ける場合は欠乏動機から来ている証拠であり、自分で責任を請け負って物事に取り組む場合は成長動機にもとづいているという捉え方もできると思います。

だからこそ、成長動機で欲求を満たすことは健康な心をもたらし、さらなる向上や前進への意欲につながっていくのですね。

このような視点で自分の問題への対処の仕方や不満を感じることへの取り組み方を振り返ってみると、その手段が他律的か自律的かが良く見えてくると思います。

 

ということで、「欠乏動機」と「成長動機」の違いは以上になるので、ここまで把握してきた内容を最後に簡単にイメージ図にまとめましょう。

 

欠乏動機と成長動機02

 

【おわりに】

さて、マズローの語る「欠乏動機」と「成長動機」の違いの話はいかがでしたでしょうか?

このコラムで触れたことを自分事に落とし込んでみることで、何故人生がうまくいかなかったのかや、どうしていつも同じような問題につまづいてしまっていたのかが明確にしていただければ嬉しいです。

なお、この2つの動機の違いも含めて、マズローの語る欲求論については下記の電子書籍に分かりやすくまとめているので、まだお読みでない方は一度手に取っていただければと思います。

水色マズロー
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