マズローの欲求階層における四つ目としても有名な承認欲求ですが、実はマズローはこの欲求を承認欲求とは呼んでいなかったのはご存じでしょうか?
多くの方が誤解しているこの欲求、本当は「尊重の欲求」という名前なんです。
一見すると同じように聞こえるこの二つの欲求ですが、よくよく知ってみると似て非なるものであり、それにもかかわらず一般的な説明ではみんなこの二つを混同しているんですよね。
したがって、それは欲求階層におけるマズローの真意を誤解していることになります。
なぜなら、承認欲求は「尊重の欲求」の一部でしかないから。
そのため、承認欲求についての理解を深めても、この四つ目の欲求の表面部分しか理解したことにならないですし、その真実には残念ながらほど遠いのです。
今回は、マズローが承認欲求ではなく「尊重の欲求」と説明していた事実の確認と、なぜ承認欲求という誤解されたネーミングが広まっているのかを解説してみました。
この記事を読んだ後に、この記事の最後にリンクを張った「尊重の欲求」の記事を読むと、両者の違いをより深く理解でき、それぞれの欲求をしっかり満たす糸口が見えてくると思います。
もくじ
1.本当はマズローは何と言っていた?
さて、それではまず、承認欲求ではなく「尊重の欲求」という名前を使ってマズローが欲求階層を説明していたということについて触れてみたいと思います。
マズローは、『人間性の心理学』という書籍における欲求階層の説明において、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求に続いて、人間に備わる四つ目の基本的欲求の説明をしているのですが、その四つ目の欲求の名称を原文ではこのような英語で表現しています。
『THE ESTEEM NEEDS』
この「esteem」という単語はあまり馴染みのない単語だと思うのですが、この英単語の意味を和訳をすると次のようになります。
「esteem」=「尊重する・尊敬する」「尊重・尊敬」
なお、「esteem」は、他にも「重んずる」であったり「高く評価する」といったような訳もあるのですが、「尊重」「尊敬」というのが一般的な和訳になるので、今回はこの二つの単語に絞って話を進めたいと思います。
ちなみに、「承認」を英語にすると「approval」が一般的な英訳です。
あるいは、承認欲求を「recognition(=認めること・認められること)」という単語を使って表現することもあります。
しかし、いずれにしろマズローは「the approval needs」でも「the recognition needs」でもなく、明確に「the esteem needs」という表現を用いています。
つまり、マズローは「approval」や「recognition」といった「承認される」「認められる」という単語ではなく、「esteem」=「尊重される」という単語を四つ目の基本的欲求の名前にふさわしいと考え用いていたのです。
そして、ご覧いただいて分かるように、「esteem」という単語自体には、そもそも「承認」という意味は含まれていません。
したがって、マズローの意図を正確に汲み取るなら、やはり「the esteem needs」=「尊重の欲求」と呼ぶのが適切なのではないかなとの結論に至ります。
ちなみに、マズロー研究者の筆頭であり、マズロー著作の翻訳もされている上田吉一さんも、ご自身のマズロー解説書籍では「尊重の欲求」というネーミングを使っているんですよね。
このことも踏まえて考えると、尚更「尊重の欲求」という名称で欲求階層の四つ目の欲求を呼ぶ方がふさわしいと思います。
もっとも、正直に言うと、これはただの言葉遊びと言われればそれまでかもしれません(笑)
しかし、マズローファンである僕にとっては、メチャクチャ重要なことなんです。
たとえるなら、茨城県出身の方が「いばらぎ」じゃなくで「いばらき」なんだよ!と憤る感覚に似ているかもしれません(笑)
もしくは、「尊重の欲求」を承認欲求と呼ぶことは、「棒棒鶏」を「バンバンジー」ではなく「ぼうぼうどり」と呼ぶくらい恥ずかしいことだと思います。
これは、「Hermes(エルメス)」をヘルメスと読んでしまった恥かしさに匹敵するかもしれません。
あるいは、さながらカツオとワカメがサザエさんの子どもだと勘違いしていたレベルの過ちだとも言えると思います(笑)
これらはもちろん冗談半分の誇大表現ですが、とはいえ承認欲求と「尊重の欲求」の混同は僕にとってはこのくらいの勘違いに相当すると言いたくなる程のことであり、しかも、大切なのは、承認欲求は尊重の欲求を満たす手段一つに過ぎないということなんです。
それにも関わらず、両者を一緒くたにしてしまっては、本当の意味でそれぞれを満たすことにはもちろん繋がりません。
だからこそ、ここまでゴチャゴチャと小言を言わせてもらった次第です。
ということで、僕の個人的なグチにお付き合いいただいた後は、なぜこのような誤解が生まれ、またそれが広まるのかの簡単な解説に入っていきたい思います。
これらの事を理解すると、承認欲求と「尊重の欲求」の輪郭の違いがよりハッキリ見えてきますよ。
2.なぜ両者は混同され誤解される?
承認欲求と「尊重の欲求」が混同される主な理由に、「承認される」という言葉と「尊重される」という言葉が持っている五感に問題があると僕は考えています。
そして、この二つの言葉の意味が似ていることがこの問題に拍車をかけ、二つの欲求がごちゃ混ぜになり理解されてしまうんです。
このことを分かりやすく説明するために、そもそも論ですが、僕たちはどうして「承認されたい」と思うのでしょうか?
もっと言えば、他者から認められることでその先に何を望んでるのでしょうか?
承認の欲求を満たすことで、何を手に入れようとしているのでしょうか?
結論から言えば、僕たちの多くは、他者からの承認を得ることで、自分自身を認めようとしているのです。
つまり、他人から価値があると認めらている自分に対してのみ価値を感じるんですね。
これを別の言葉で言い換えれば、他者から認められて初めて自分に価値を感じることができ、逆に多くの人々が他者から認められなければ自分に価値を感じることができないということになります。
このような事の背景には、現代における教育上の問題だったりいびつな社会構造の存在だったりと様々な要素が絡み合っていると思うのですが、いずれにしろ僕たちの多くが他者からの評価という土台がなければ、自分への価値を見出すことができなくなってしまっているんです。
つまり、僕たちは、他者からの承認を「手段」とし、自分以外の人からの承認を得ることで自分を承認するという「目的」を達成しようとしているということです。
ちなみに、自分自身がこのような状態になっていることに多くの人が気づいていないことがこのヤヤコシイ問題の姿をなおさら見えにくくしています。
同様に、皆さんは単純に「尊重する」という言葉を聞いて、誰が誰を尊重するシーンを思い浮かべるでしょうか?
おそらく多くの方が、「AさんがBさんを尊重する」であったり、「私がCさんを尊重する」もしくは「Cさんは私を尊重している」というシーンを思い浮かべるのではないでしょうか。
つまり、いずれの場合においても、尊重する人と尊重される人は別の人物です。
これは「尊重する」ということだけではなく、「esteem」のもう一つの和訳である「尊敬する」にも同じことが言えますね。
要するに、「私が私を尊重する」や「私が私を尊敬する」というような使われ方はあまりしないということです。
実際に、このような文章を目にすると違和感を感じる方も少なくないと思います。
したがって、僕たちの普段の日常会話では、「尊重(尊敬)」される対象が自分自身の場合においては、基本的は受け身の表現になります。
つまり、このような場合の言い方としては「私は尊重されている」や「私は尊敬されている」という表現がしっくりくるということです。
そして、「尊重される」や「尊敬される」ということは広い意味では「他者から認められる」という意味合いになりますよね。
少なくとも、僕たちは自分が認めていない人を尊重したり尊敬したりはしません。
仕事で関わるかプライベートで関わるかは関係なく、自分がキライな人、そりが合わない人、気に入らない人、一緒にいて居心地が良くない人というは、認めたくても認められません(笑)
逆に言えば、相手を何かしらの理由で認めているからこそ、尊重したり尊敬したりすることができます。
つまり、この内容を踏まえて、「the esteem needs」が「承認の欲求」と捉えられた流れをまとめると、次のようになるということです。
①「esteem」=「尊重する」
②「the esteem needs」=「尊重の欲求」
③「尊重の欲求」=「尊重されたい!」という欲求
④「尊重されたい!」=「他者から認められたい!」
⑤「他者から認められたい!」=「承認されたい!」
⑥「承認されたい!」という欲求=「承認の欲求」
このように、順を追って「the esteem needs」を紐解いていくと、たしかに「尊重の欲求」が承認欲求に取って代わられるのも分からなくはない気がしますよね。
つまり、「尊重」という言葉と「承認」という言葉の持つ意味が似ていることと、それぞれの言葉を使う際に「私」を主語においたときのこれら言葉の使われ方が共に受動的であることが、「the esteem needs」を承認欲求とすり替えてしまう主な理由になるということです。
この話は少々回りくどい内容だったかもしれませんが、要は本来は全然違う意味の「尊重」と「承認」が一般的にはちゃんと区別されることなく使われることが原因であると言い換えてもいいかもしれません。
簡潔に言えばこの一言の説明で済むことを、あーだこーだ言ったことでかえって分かりにくくしてしまっていたらごめんなさい(笑)
とはいえ、この二つの欲求がちゃんぽんされるもっと根本的な原因が実はもう一つあります。
3.なぜ承認欲求という誤解が広まる?
僕たち日本人が「承認」と「尊重」をそれほど明確に使い分けないという事実がある一方で、マズローが明確に「THE ESTEEM NEEDS」と表現しているのにも関わらず、二つの欲求が混同されたまま広まってしまうのは何故なのでしょうか。
その根本原因は、マズロー書籍を日本語に翻訳する段階にあったのです。
日本語に翻訳されているマズロー書籍は全部で六冊あるのですが、そのなかでも一番最初に出版され、マズロー心理学のベースが語られている書籍が冒頭でも触れた『人間性の心理学』なのですが、実はこの書籍のなかで「THE ESTEEM NEEDS」を「承認欲求」と翻訳しているんですよね。
つまり、マズロー心理学を触れようと思った人がまず最初に手にするであろう書籍に、あろうことか承認欲求と訳された状態で「尊重の欲求」の説明がなされているのです(ちなみにこの書籍の翻訳は先程ご紹介した上田吉一さんではありません)。
なおかつ、他の五冊では欲求階層における基本的欲求の詳しい解説はされていません。
要するに、唯一マズローが欲求階層に含まれる五つの基本的欲求をそれぞれ説明している書籍において「尊重の欲求」が承認欲求と翻訳されていることが、両者を混同し尚且つ承認欲求の名前が一般的に広まっている根本的な原因だということです。
そのため、ネット上でマズローの階層論を説明しているほとんどのサイトにおいて、四つ目の欲求を承認欲求として、あるいは「承認欲求(尊重欲求)」といった形で当たり前のように一括りで説明してしまっています。
また、誰しもがまず情報源を求めにいくサイトであろうWikipediaにおけるマズローの自己実現論に関する説明においても「承認(尊重)の欲求 」と記載されています。
こうなりゃもう、お手上げですよね(笑)
もっとも、多くの方にとってこの事はそれほど重要ではないことだと思いますし、僕は『人間性の心理学』における翻訳を責めたいワケでもありません。
いわんや、僕自身はプロの翻訳家ではないので、ここでの個人的な意見はさながらサッカーボールを蹴った事すらないオジサンがさも知ったかぶってプロサッカー選手のプレーを批判するような愚かなことだとも思ったりもします(笑)
しかも、翻訳者の方がその翻訳に秘めた本当の意図はもちろん、翻訳するという作業の大変さや苦悩はその経験をしたことがない僕には知り得ないことなので、そういった意味でもこの事はそもそも外野のド素人が口をはさんでいいことではないのかもしれません。
というのも、僕は日本語訳された『人間性の心理学』の「尊重の欲求」の記述をまず最初に読んで違和感を感じた後で英語で書かれた原文を読んでみたのですが、実際に自分でマズローの書いた英文を読んで初めて翻訳作業の大変さや難しさの一端を垣間見ることができました。
そのような経験を通してマズローの書いた専門性の高い文章を日本語に訳す難易度の高さを知ってしまえば、翻訳者の方を一方的に非難することなどは到底できないんですよね。
そういった意味でも、『人間性の心理学』において「THE ESTEEM NEEDS」が「承認欲求」と訳されていることに関してこのような形で自論を述べることは良ろしくないのではないかなどと葛藤したりもしました。
なお、こういった事も含めて結局何が一番大切なことなのかというと、それはマズローの述べていることをどれだけ自分の人生に活かせるかということだと思います。
したがって、「THE ESTEEM NEEDS」の解釈に僕のように引っかかることなどなくスムーズにマズローの主張を腑に落とすことができるのが、一番いいのかもしれませんね。
むしろ、ヘンな所でつまづいて、しかもそれによって重箱の隅をつつくようなイチャモンをつけるよりは、素直に日本語訳された内容を受け入れた方が賢いようにも思えたりもします。
ということで、結果的にちょっとした自己嫌悪に陥ったところで(笑)、続いては気を取り直して、せっかくなので「尊重の欲求」の満足の参考として承認欲求を満たすコツだけ最後にお伝えできればと思います。
4.承認欲求を満たすコツ
さて、基本的には僕たちの多くが、「他者からの承認」を得ることで自分を承認しようとする傾向があると話しました。
では本当に、そのような回りくどい道筋だけでしか自分を認めることはできないのでしょうか。
先に結論から言えば、その答えは「ノー」だと思います。
つまり、僕たちは「他者からの承認」を経由しなくても自分を認めることができます。
むしろ、皆さんの周りにも「他者から承認」をいくら得たところで一向に自分を認められない人がたくさんいるのではないでしょうか。
身近な知人に一人や二人は、どれだけこちらが褒めたり評価しても、「いやいや私なんて」とか「自分なんてまだまだ」という反応を示す人がきっといますよね。
こちらからはその人の良い部分がたくさん見えていて、なんならその長所や特徴が羨ましいくらいなのに、本人はそのことを自慢したりもせず、それどころかそれが自分の長所だということに気づいてすらいないというケースは何かしら思い当たると思います。
それは時に、「あの人はもっと自分のことを好きになっていいのに勿体ないな」という感じで、こちらをもどかしい思いにさせることすらもあります。
しかしそういう素敵な人に限って、こちらがその人を褒めようものなら、その人は全力でそれを否定してきたりします(笑)
なぜなら、そのような人は基本的に褒められることにあまり慣れていないので、たとえ誰かが褒めてくれたとしても「それは買いかぶりすぎだよ」とか「そうは言っても上には上がいるしさ」というような感じであからさまに遠慮や謙遜をしたりします。
もしくは、「そんなこと言っても何もあげないよ?」とおどけて話をそらそうとしたすることもあったりしますよね。
あるいは、人によっては、「あの人は何も分かっていない」「私のことを誤解しているからあんな風に言えるだけだ」と他者否定や自己卑下に向かう人もいるでしょう。
この話を聞いて、過去にそういう人と関わった時の記憶が思い出された方も多いと思います。
そして、既にお気づきかもしれませんが、このことはそのまま自分自身にも当てはまることです。
つまり、僕たちは他者のことは認めようとしその人の良い部分に目を向けることができるのに、それが自分事となると手のひらを返したように態度を急変させてしまうんですよね。
自分を認められない理由をこれでもかとたくさん見つけて、自分の長所をひた隠しにすることで、自分自身を認めることに何が何でも抵抗します。
その姿はもはや、気に入らない嫁をいじめる小姑や、鼻につく後輩に冷たく接する意地悪なお局様のような態度です(笑)
つまり、先ほどはあえて「他者から承認をいくら得たところで一向に自分を認められない人」という言い回しをしましたが、厳密には僕たちの多くが「自分を認められない」のではなく「自分を認めようとしない」だけなのです。
その背後には、おそらく「自分を認めることへの恐怖」があるのでしょう。
この「自分を認めることへの恐怖」に関するマズローの解説も非常に面白いのですが、その詳細に触れると話が発散してしまうので割愛させていただきますが、いずれにしろ、僕たちは「本当はすぐにでも自分を認められるにもかかわらず、あえて自分を認めようとしていない」ということ視点で自分自身を振り返ってみると、新しい発見があると思います。
「なぜ私は自分を素直に認めてあげないのだろうか?」
「どうして私は今の自分を承認することができなのか?」
「ありのままの自分を認めないことで得ているものが実はあるのではないか?」
といったことを自分自身に問いかけてみると、意外と簡単に自分の承認欲求を満たす糸口が見えてきたりしますよ。
5.承認欲求ではなく尊重の欲求を満たそう
さて、このコラムの内容は以上になりますが、やはり承認欲求を満たすだけでなく、それを包み込んでいる「尊重の欲求」を満たすことが大切だということに変わりはありません。
ということで、その内容は下記リンク先の「尊重の欲求」に関するコラムに譲っていますので、そちらを参考にしていただければと思います。
マズローが語る「尊重の欲求」に関するメッセージは、自分が本当に望んでいる人生を生きるのにとても役立つ叡智で溢れていますよ。