Creepy Nuts(クリ―ピーナッツ)が2020年にリリースした楽曲「かつてだった天才だった俺たちへ」の歌詞には、マズローの語る「本当の意味での心の健康」と「自己実現」に通ずるエッセンスがたくさん眠っています。
ということで、今回は、「かつてだった天才だった俺たちへ」の歌詞に隠されている、僕たちがありのままの自分を謳歌する秘訣を紐解いてみたいと思います。
【歌詞引用元】
Creepy Nuts 「かつて天才だった俺たちへ」
作詞:R-指定
作曲:DJ松永
マズローは、僕たちが自分で自分の限界を決めてしまうことに注意を促してくれていました。
自分の限界値を低く決めつめてしまうその背景には、変化に対する恐怖心や自己否定の気持ち、あるいはマズローが「ヨナ・コンプレックス」と呼ぶ自己防衛による逃避などがあります。
要するに、僕たちは自分が傷つくのが怖くて自分の可能性を低く見積もってしまうのですのですね。
そして、それはもはや自己暗示に近いもの。
自分で自分に嘘をついて、「私はこんなものさ」「どうせ俺なんてこの程度だ」と思い込もうとするんです。
そして、自分を過小評価する理由は無限に見つかります。
「これ苦手なんだよね」
「体が丈夫じゃないし」
「私は昔から頭悪いから」
「僕は仕事できないタイプだから」
「俺はなんの取柄もない凡人だしさ」
あるいは、過去の恥をかいた経験や馬鹿にされた体験や失敗談などといった、心に小さな傷を残したことが大人になっても残っていて、それにより新しい世界に足を踏み入れようとしなくなります。
しかも、それは無意識で行われることです。
したがって、それが自己防衛だと気づきません。
「かつて天才だった俺たちへ」にも、こんな歌詞がありますよね。
苦手だとか 怖いとか 気づかなければ
俺だってボールと友達になれた
頭が悪いとか 思わなけりゃ
きっとフェルマーの定理すら解けた
すれ違ったマサヤに笑われなけりゃ
ずっとコマつきのチャリをこいでた
力が弱いとか 鈍臭いとか 知らなきゃ
俺が地球を守ってた
誰しも必ず大なり小なり傷ついた経験はあり、自分が万能でないことは悟るものです。
そうして、自分の中に眠る可能性の芽を自分で摘み取ります。
しかし、理想像に描くような万能性はなくとも、誰でも何かしらのオリジナリティ溢れる個性はもっていました。
その個性を発揮さえすれば、必ずしも世界的な偉業や社会的に大きな影響力を与える事ではなくとも、その個性を極める道の先には自分だけの本当に望ましい結果が待っていたのです。
破り捨てたあの落書きや
似合わないと言われた髪型
うろ覚えの下手くそな歌が
世界を変えたかも…
自分が失望や傷心により歩みをとめなければ、この世界は全く違ったものに変わっていたかもしれません。
もっとも、ここで言う世界とは、全世界に影響を与えるという意味ではなく、自分の中にある世界を変えることでもあります。
「現実は甘くない」
「夢なんて見るもんじゃない」
「大人しく生きていた方が無難だ」
「自分を素直に出せば傷ついてしまう」
「自己表現をしたってロクなことがない」
そんな自分で決めつけたルールや固定観念、盲目的に信じ込んでしまっている思い込みを変えるという意味です。
かつて天才だった俺たちへ
神童だった貴方へ
似たような形に整えられて
見る影も無い
僕たちは、幼い頃には誰もが自分の個性と可能性を完全に活かしきれていたはずなのに、いつの間にか当然のようにそれを押し殺し、「右向け右」という他者や社会の指示に従うことで、次第に本当の自分は跡形もなく消え去ります。
そうして、もともとシンプルだった世界を複雑なものにし、自分で自分の首を締めます。
そうなると、もし、もう一度元々の自分の姿に戻ろうとしても、その道はまるで迷路のような道のりになっています。
しかし、ありのままの可能性を思う存分発揮して本当の意味で心豊かに生きるためには、その道を自分自身の足で進み出し、ときに間違え、苦悩し、葛藤するしかないんですよね。
いまだかつて
ないほど入り組んだway
悩めるだけ悩め
時が来たらかませ
風まかせ
そのタイミングは必ずしも今ではないかもしれませんが、いつまでも「いつか…いつか…」と現状維持に甘んじて先延ばしにし続けていると、風に乗って羽ばたくチャンスはなくなります。
どっちみちいばらのway
俺らは大器晩成
時が来たらかませ
いまここを生きられない人は、きっと死ぬまで「いつか…いつか…」と言い続けますし、歳をとってから活躍できる人は、若い頃から本当に向き合うべき事と向き合っているから、人生の流れの中でしっかりと成すべき時に成すべき事ができたのでしょう。
言うなれば、いま自分が成すべき事が現状維持でないのであれば、これまでとは違う方向へ勇気と共に舵を切る必要があるのです。
I wanna be a 勝者
I wanna be a 強者
まだ見ぬ高みへ駆け込み乗車
花火のような
運命だろうが
我が身果てるまでやりきれそうya
一度は失われてしまった本当の自分を取り戻すためには、傍から見たその過程における姿がみっともないかどうかは関係ありません。
同時に、その道程における輝かしい活躍が、仮に長きにわたるものでなくたって一向に構わないのです。
生まれてこの方
一体いくつ分岐点を見過ごして来たんだろうか?
墓場に入るまで
後一体いくつ可能性の芽を摘んでしまうだろうか?
稀代のうつけ者 or 天下人 or 今まだ醜いアヒルの子
マズローは、人生におけるあらゆる選択の場は、成長や前進を選び自己実現を生きるベクトルの選択と、恐怖心から安全や退行を選び自分を萎縮する選択とに分けられると語っていました。
同時に、朝起きてから夜寝るまでの無数の選択を繰り返す中で、後者の安全の選択肢を選ぶ度に、僕たちはどんどん自分の望まない方向へ進んでしまうと述べてもいます。
そして、塵も積もれば山となる。
気付けば、自分でも知らないうちに、マズローが「高次病」と呼ぶ不健康な心の持ち主になり、不平不満・冷笑・依存・退屈・無関心などで溢れかえる世界の住人と化してしまうのです。
ほらどうぞご指導ご鞭撻の程
渡る世間の洗礼を浴びるとこ
俺はキャンパスかなり薄汚れた
なおかつ、社会はそれを助長する人やシステムでいっぱいです。
そこにどっぷりと浸ることで、常識や社会通念という他人の色で自分は染まっていきます。
そうして、それが当たり前でありフツーなんだと自分を説得することで、仮面を被りうそぶいた人生を生きることが板についてしまうんですね。
しかし、それを続けるかどうかはいまの自分次第。
自分の代わりに本当の自分を生きてくれる人は誰もいません。
そして、自己防衛のために被った仮面を剥ぎ取り、自他を欺いているウソを手放すことは、いまここで出来ることです。
だけどワンチャンスまだ余白はあるさ
ちゃっかり目立ったり劣ったり
この隔たりよ永遠に
無限の可能性が閉じたのは、歳を重ねたからでも世間を知ったからでもありません。
それはただ単に、自分を「成熟」させるのではなく「腐敗」させる選択肢を選び続けたがゆえの結果です。
子どもの頃の自分は、たしかに未熟だったかもしれませんが、未熟なりにそのありのままの自分の味わいきっていました。
かつて天才だった俺たちへ
神童だった貴方へ
何にだってなれたanother way
まだ諦めちゃいない
お前は未だに広がり続ける銀河
孫の代までずっとフレッシュマン
粗探しが得意なお国柄
シカトでかまそうぜ金輪際
新鮮で無邪気な心の持ち主は、自分のなかに広がる銀河を自分で縮小したりはしません。
それにより他人から冷たい視線を向けられたり、後ろ指を指されたりすることもありますが、それらに打ち負けることも、勇気をくじかれることもないのです。
かの有名なオノ・ヨーコが、「私を小さいと思うかもしれないが、私の心には宇宙がある」と言ったのはまさにこの事のように思います。
宇宙よりも大きな可能性を閉じているのは、まぎれもない自分自身なのです。
もっと言えば、その可能性を閉じることができる唯一の存在が自分です。
無傷のままじゃ居られない
変わり続けてく多面体
その物差しじゃ測れない測らせる気も無い
風まかせ
どっちみちいばらのway
俺らは大器晩成
時が来たらかませ
自分を固定化し、窮屈な箱の中に閉じ込めていれば傷を負うことはありませんが、自己実現を果たし自分を生き切っている人は、変化を楽しむことができる柔軟さや、自分に眠っているたくさんのまだ見ぬ自分の発見と共に、豊かな心持ちで人生を堪能しています。
他人の無責任なモノサシによる評価など寄せ付けるスキもないほど、洗練された精神性で自分を謳歌しています。
彼らは、自分を殺そうと自分を活かそうと、どちらにせよ苦悩や葛藤は付き物だという事を身をもって理解しているので、執着心や恐れを手放し、全体の流れに身を任せながら優雅に伸び伸びと生きることを選びました。
その過程で、自分をより一層深め、研ぎ澄ますことで、大きな波を乗りこなすことができるようになり、類まれなる成果や自分にとって本当に望ましい結果に辿り着くことができたのですね。
Creepy Nutsの「かつて天才だった俺たちへ」という楽曲は、そんなことを感じさせてくれる素敵な曲だと思います。
メッセージ性の強い歌詞が、独特の韻を踏むアップテンポなリズムとサウンドに乗せられることで、更に僕たちの心にグググッと響いてきてくれます。
特に、男気溢れる世界観がたまらなくカッコいいですし、思わず踊りだしたくなるようなビートは、さながら僕たちを自分の本当の人生へと誘う波のような感じもしますね。
かつては、誰しもが自分の人生を生きる天才でした。
この曲は、そんなことを思い出させてくれる素晴らしい名曲だと思います。
※このコラムの内容は、あくまでもマズロー心理学という眼鏡をかけた目で見た個人的な解釈であり、この曲の作り手・歌い手・演者の方々が込めてくれたメッセージの感じ方の一つです。