講談社コミックから出版されている東村アキコさん著の『東京タラレバ娘』という漫画には、実はマズローの語る自己実現を生きるヒントが隠されていることはご存じでしょうか?
今回は、『東京タラレバ娘』のシーズン1に当たる、最終話の中に隠れているそのヒントを紐解いていきたいと思います。
もくじ
1.タラレバ娘とは?
まずは、『タラレバ娘』という漫画について簡単におさらいしたいと思います。
『東京タラレバ娘』という漫画は、ザックリ言うと33歳の三人の幼馴染の独身女性(倫子・香・小雪)の恋愛奮闘記です。
彼女たちは東京の飲み屋で、女子会と称して「~だったら」や「~であれば」といった言い訳や妄想をしながら結婚できない理由を夜な夜な語っています。
そんなことを酔っぱらいながら大声でしゃべる彼女たちに、偶然その飲み屋にいた若い売れっ子モデルの男性(KEY)が苛立ち、そのモデルは、そんな話ばっかりしているからアンタらは結婚できないんだと三人に言い放ち、彼女たちに「タラレバ娘」と名前をつけることから物語は始まります。
先にこの漫画の結末を言ってしまうと、最終的には主人公の倫子がKEYのことが好きだという自身の本当の気持ちを伝え、KEYが倫子にキスをして終わるのですが、実はその最終話にマズローの語る自己実現との共通点があるのです。
2.自己実現の欲求の特徴
ここで、先に『タラレバ娘』と自己実現の共通点の結論から言うと、それはズバリ、「充足欲求」で生きるという点です。
どういうことかと言うと、先ほどのも触れたように三人のタラレバ娘たちは、「~たら」「~れば」と足りないものや、無いものばかりに目を向けています。
過去を振り返り「あのときこうしていたら…」と後悔したり、現実離れした理想像ばかり思い描き「こんな未来になれば…」と現実逃避したりする感じですね。
つまり、欠けているものや不足しているものばかりに意識が向き、不満ばかりを募らせているのです。
なおかつ、彼女たちはそのせいで目先のやるべきことや本当に大切にすべきものを見落としている点も多かったり、地に足の着いた判断ができなくなっていたりして、この辺りは僕も含めて読む人の心にグサッと刺さるものがあるのではないでしょうか(笑)
一方で、マズローの語る欲求階層にも、似たような話があります。
マズローが人間の欲求を五つに分類し階層上にし、それを階層の下から「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「尊重の欲求」「自己実現の欲求」と分けていたのは有名ですが、下位の四つの欲求をマズローは「欠乏欲求」と呼びました。
この欠乏欲求の特徴は、不満と満足を延々に繰り返すことと、満足のためには他者に依存する必要があるという点です。
つまり、「不満」という欠けている状態を他人のちからを借りることで満たすことができるということで、例えて言うなら空っぽのコップに水を注いでいるタイプの欲求です。
この一方で、欲求階層の五つ目の「自己実現の欲求」のみが、「成長欲求」と分類されます。
この成長欲求の特徴は、「充足状態から始まる」ということで、コップの例で言えばすでに満たされているコップから水が溢れ出ているイメージですね。
言い換えれば、先ほどの欠乏欲求は空っぽの状態を埋めるような欲求であるのに対し、成長欲求は自分の内側から湧き出してくるような欲求であり、その目的は欠乏状態を満足させるものではありません。
なおかつ、成長欲求にはいわゆる「完全に満足する」という状態はなく、その欲求は飽くなき向上心や探究心によってどんどん大きくなっていくという特徴もあります。
つまり、成長欲求に該当する「自己実現の欲求」とは、心が満たされた状態から溢れ出す内発的かつ自発的な欲求なんですね。
詳しくは、この欠乏欲求と成長欲求のより詳しい内容については下記コラムに詳しく書いてあるのですが、ここでは両者のスタートラインが「空白状態」か「充足状態」かで違っているということだけ覚えておいていただければと思います。
3.タラレバ娘のラストシーン
さて、このようなことを念頭に、今度は再度『タラレバ娘』の最終話を振り返ってみましょう。
主人公の倫子とKEYがお互いの好意を素直に伝え合うことは先ほど触れましたが、そのラストシーンがまさに成長欲求を感じさせるものなんです。
倫子は、これまでずっと「たら」「れば」言っていた自分と決別し、そこから卒業するキーワードとして「から」という言葉を見つけ出します。
それは、「こうだったら」「こうしていれば」という後悔ではなく、「こうだったから」という、今までの出来事への感謝の気持ちです。
今まで「たられば」言っていた「から」、自分はKEYと出会うことができたのだということですね。
これは、倫子が無い物ねだりの欠乏感ではなく、すでにあるものへの充足感に目を向けることができるようになったと捉えることができるのではないでしょうか。
ちなみに、欠乏欲求は「与えてもらう」という特徴がある一方で成長欲求は「与える」という特徴があるのですが、この点においても倫子の「から」という感謝と充足の気持ちは、相手に対して「与える」というスタンスに変わることができたとも言えると思います。
また、マズローの語る自己実現とは利他と利己の両方の性質を帯びているものであり、「自分のために」だけではなく「相手のために」という気持ちのことなので、こういった意味でも、倫子が自分の乾いた欲求を満たすことではなく内側から溢れ出す欲求から相手に与えるようになったことも成長欲求的だなと個人的には感じます。
要するに、倫子はそれまでの「たら」「れば」ばかり言って自分の満たされない欲求を必死で埋めようとする欠乏意識から、「から」という充足意識で自分のなかにすでにあるものを相手に与える欲求へとシフトできたということですね。
実際、倫子は、このラストシーンで次のように言っています。
「私この人を幸せにしたい 私がそれをできなくても 誰か別の人とでもいいから幸せになってほしい、それが愛ってやつでしょう!?」
このセリフはまさに、「内側から溢れる愛情を相手に与える」という充足欲求からくるものではないでしょうか。
そして、それから一年たった倫子は、もうタラレバ言わなくなっていました。
倫子は、これまでタラレバ言っていたからこの一年間いいことがあったと思える、あなたに出会えたから、あなた達がいてくれたから、私はこの街で生きていけると倫子は涙を流してタラレバに別れを告げるのです。
この内容は倫子が自己実現したという意味ではありませんが、自己実現という充足欲求で生きる人生とはどんなものなのかのヒントになる素敵なエピソードだと思います。
自分の空白を埋める欠乏欲求から、相手に与えることで満たされる充足欲求へのシフトが、恋愛に関わらず、仕事や人間関係においても大切なのではないでしょうか。
僕たちも、タラレバから卒業できた倫子のように、充足という成長欲求に基づいて、自分も相手も満たし合うことができるようになりたいものですね。