マズローによって自己実現という言葉が日本でも浸透してだいぶ時か経ちましたが、どうも「自己実現」というワードが独り歩きしているような気がしてならない昨今。
「自己実現ができない!」
「自己実現したいけど私には到底ムリ…」
というお悩みをもっていらっしゃる方も少なくない一方で、
「そもそも自己実現なんていらない!」
「マズローの理論は古い!」
というご意見もあるようですね。
今回はこのようなことも含めて、どうして多くの人が自己実現ができないのかと自己実現へと歩み始める秘訣について紐解いてみました。
その背景には、実は自己実現への様々な誤解と、意外と気付きにくい隠れに隠れた欲求階層におけるとある盲点が存在しているんです。
もくじ
1.そもそも自己実現を誤解している?
さて、それではまず大前提の話ですが、そもそも「自己実現」とは何なのでしょうか?
実は、ここを勘違いしていることが、自己実現ができなかったり、マズローの自己実現の話を拒否したり否定したりする大本の原因の一つになっています。
詳しくはこちらのコラムに書いてあるので後で読んでいただきたいのですが、ここでは結論だけ先に言うと、マズローの語る自己実現とは何かを一言で言えば、それは「ありのままの自分の可能性を謳歌すること」「本当の自分自身で在り続けること」という意味になります。
つまり、自己実現とは、「社会的に成功すること」でもなければ、「大きな目標を立ててそれを達成すること」でもありません。
「大きな意義や影響力のあることを成し遂げる」とも「夢を叶える」とも違うものです。
それらは、あくまでも自己実現のもたらす一つの結果に過ぎず、自己実現そのものとは直接は関係がないんですよね。
もっと言えば、自己実現とは「過程」そのものであり、「ゴール」や「到達点」のことではありません。
したがって、自己実現にはある意味での「完成」や「終了」というものはなく、現在進行形で深め続けるもの、あるいは極め続けるものです。
そして、先ほどの説明にあるように、深めたり極めたりするものは、ありのままの自分であり、本来の自分自身なんですよね。
つまり、どこか遠くにある「理想像」として自分を目指すことではありません。
さらに言えば、そのようなスタンスはある意味では自己実現とは真逆のベクトルとさえ言えるものでしょう。
ここの大本のところを勘違いしてしまうことで、「自己実現ができないよ~(泣)」「自己実現なんて意味がない!(怒)」というズレた結論に着地してしまうんです。
その結果、自分のなかの「自己実現の欲求」は満たされずに、悶々とした感覚を抱いたり、欠乏感・空虚感を感じたり、自分を偽ったり騙したりしながら生きるようになってしまいます。
しかも、実はマズローは自己実現の欲求が消える理由までちゃんと伝えてくれていて、尚且つその対処法まで僕たちに教えてくれているのに、多くの人がその事実を知りません。
むしろ、そのマズローのアドバイスにしっかり耳を傾けようとしないから先ほどのような自体に陥ってしまうと言ってもいいと思います。
ということで、このような前提のもと、続いては自己実現の欲求が消える理由についてマズローが何と言っていたのかを把握していきましょう。
2.自己実現の欲求が消える理由
自己実現の欲求が消える理由は、大きく分けて二つあります。
そのひとつ目が、「欲求が本当は消えていないのに消えていると勘違いしているパターン」です。
二つ目が、「欲求が永遠に失われてしまっているパターン」になります。
これらのいずれかに該当すると、自己実現の欲求は僕たちに意識されません。
なお、前者の消えていると思い込んでいるケースは自己実現の欲求以外の他の基本的欲求にも当てはまるのですが、この事についてマズロー自身は次のように語っています。
『これらの欲求は、必ずしも意識的あるいは無意識的のどちらかであるとは限らない。しかし概して平均的な人では、意識的であるより無意識的である方が多い。』(人間性の心理学)
つまり、欲求階層における各欲求の存在を本人は自覚できていないことの方が多いということですね。
そして言うまでもなく、自分で自覚できない欲求は無いのと同じです。
しかも、仮に何らかのかたちで無意識下にあるその欲求を満たせたとしても、そのことにすら気付かない場合もあるでしょう。
もっとも、それはそれである意味では幸せなのかもしれませんが(笑)
しかし、少なくとも、実感としての満足感や充足感がなければ、それはやはり健全な欲求満足とは言えないと思います。
「お腹が空いた!」という自覚があってご飯を食べるから美味しいのであって、お腹は空いているのにその自覚がない状態で勝手に胃袋が満たされても嬉しくもなんともないですよね(笑)
そういった意味では、自分がどんな欲求をもっていて、それがどの程度満たされていないのかが自覚できてはじめて欲求満足は満たしがいが生まれるのです。
それと同時に、意識されていない欲求にも二種類あり、それは「満たされているけれど意識されていない欲求」と「満たされない状態のまま無意識下に眠ってしまった欲求」の二つに分けられるということです。
言い換えれば、満たされていることを自覚できていない欲求と、満たされていないことを自覚できていない欲求の二種類があるということですね。
つまり、これらことを整理すると、
①意識的な満足できている欲求
②意識的な満足してない欲求
③無意識的な満足できている欲求
④無意識的な満足していない欲求
の四つに分けられるということになります。
もっとも、この一つ目のパターンの内容は今回の主題とは逸れているので詳細は割愛させていただきますが、いずれにしろ、「私は自分の欲求を意外としっかり自覚できていないのかもしれない…」という視点で自分を振り返ってみると、人によってはそれだけで新しい発見があるかもしれません。
さて、では今回のメインテーマであるもう一つのパターンについて深ぼって行きたいと思うのですが、実は二つ目である「欲求が永遠に失われてしまっているパターン」も、一つ目のパターンと同様に自己実現の欲求以外の欲求にも当てはまるとマズローは述べていました。
つまり、自己実現の欲求ではない他の欲求も永遠にすがたを消すということがありえるのです。
そして、欲求階層というのが、階層の一番下の「生理的欲求」から順番に満たしていく必要があるというルールに基づいて考えれば、自己実現の欲求が消え去っているのは、もしかしたらその下に位置する「尊重の欲求」や「所属と愛の欲求」などが消えていることによるものかもしれないということです。
しかも、一つ目のパターンで触れたように、僕たちは自分の欲求を正確に意識できていないということも踏まえて考えると、場合によっては、自己実現の欲求が消えている大本の原因は、自覚できていない不満足状態の下位の欲求であるかもしれないのです。
これを言い換えれば、自己実現の欲求より下位の欲求が消えているのであれば、自己実現の欲求が消えているのは当然であるということになってしまいます。
もう少し具体的に言えば、たとえば「尊重の欲求」や「愛の欲求」が何かしらの理由で消失していることで、自己実現の欲求が消えているかもしれないんですよね。
なお、この具体例として、マズローは長期間にわたって失業してしまった人を挙げていました。
マズローは、職を失うなどして生活水準が著しく低い環境下で長く過ごしていた人は、食物さえ十分あれば生涯にわたって十分満足していられるようになると考えていたのですが、そのことについて分かりやすく言及していた文章に以下のようなものがあります。
『熱望の水準が永久に消滅していたり低められている人々がいる。すなわち、長期にわたる失業者のように非常に低い生活水準で人生を過ごした人は、食物さえ十分であれば生涯満足していられるというように、あまり優勢でない目標が簡単に失われてしまったり永久に消減してしまったりすることがある。』(人間性の心理学)
つまり、基本的欲求の階層で言うところの「生理的欲求」だけの満足で終わってしまい、その上位に位置する欲求の満足に進もうとは思わなくなってしまっているということですね。
本来、僕たちは特定の欲求がある程度満たされれば、それより一つ階層が上の欲求の満足へと進むものです。
しかし、そのような向上が永遠に奪われる(あるいは自らの手で放棄する)ことが実際にあり得るということになります。
また、これとは違う上位の欲求の完全消滅の事例として、マズローは先程と同じ書籍の中で「愛の欲求」に焦点を当て下記のように述べてもいました。
『いわゆる精神病質人格は、愛の欲求を永久に失ったもう一つの例である。我々の最良のデータでは、これらの人々は、人生の初期に愛にひどく飢え、愛情を与えたり受けたりする欲求や能力を簡単に永久に失ってしまったのである(動物の吸ったりつついたりする反射も、誕生直後から練習しないと失われてしまうのと同様である)。』
つまり、人生の初期に愛にひどく飢えていた人は、愛情を与えたり受けたりする欲求や能力をいとも簡単に永久に失ってしまうことがあるということですね。
そして、言うまでもなく、これらの事例に該当する人は自己実現の欲求がすがたを現すことはありません。
自己実現の欲求の土台となる下位の欲求が消え去ってしまっているので、当然といえば当然ですよね。
とはいえ、一つ目の「生理的欲求」だけで生きるようになった人は、現代の日本では稀なケースと言え、二つ目の「愛の欲求」が消えたケースも決して多い事例ではないと思います。
そういった意味では、もしも自分がこのいずれかに該当すると思ったとしても、それを安易に決めつけないほうが良いと思いますし、少し前にも述べたように僕たちは想像以上に自分の欲求をしっかりと把握できていないので、そういったことも踏まえてこの症例の話は理解したほうがいいと思われます。
いずれにしろ、このようなマズローの主張に触れたことで、基本的欲求が永遠に消滅するということがお分かりいただけたのではないでしょうか。
そして、これはもちろん自己実現の欲求にも当てはまり、むしろ自己実現の欲求は特にその傾向が強いと言えます。
というのも、欲求階層は上位の欲求の満足は優先順位が低く、不満足の状態では下位の欲求の満足が優先されることからも、自己実現の欲求はないがしろにされがちだからですね。
このことは、マズローの次のような文章からも確認できます。
『より高次の欲求は低次の優勢な欲求が満たされるまでは意識にさえも現れないからである。そして、ある程度それが意識に現れないと、欲求不満は起こりえない。たとえば、かろうじて生きている人は、人生についてのより高次の問題、幾何学の勉強、投票権、自分の町の評判尊敬などについて気をもんだりしない。』(人間性の心理学)
この引用文は、これまでのおさらいにもなる話ですね。
そして、このことも踏まえて大切なことは、自分の実現の欲求が永遠に消え去っているのか、それとも、下位の欲求の不満足により姿を現していないだけなのかをちゃんと明確にする必要があるということです。
もっとも、おそらくこのコラムに興味を持ち、尚且つここまでお読みくださっている時点で、自己実現の欲求が永遠に消滅していることはないのかなと思います。
というのも、ここまで読み進めた現時点での気持ちがどのようなものであれ、その背景には自己実現の欲求があると言えるからですね。
先程のような理由で完全に自己実現の欲求が消滅している人は、きっとこのコラムには興味も持ちませんし、偶然辿り着くこともないでしょうし、仮にそうだとしても途中で読むのをやめてしまうと思うからです。
ちなみに、マズローは自己実現の欲求も含めた基本的欲求は人間ならば生まれながらにして誰でも内在させているものであり、生まれ育った文化や環境に左右されるものではないとも考えていました。
そのことを端的に表現した文章に、次のようなものがあります。
『基本的欲求は、表面的願望や行動以上に、人間に共通なものなのである。』
つまり、自己実現の欲求は、成長過程で消滅したり意識から消えたりすることはあれど、人間であれば必ず持ち合わせているものなのですね。
なおかつ、マズローが基本的欲求において自己実現の欲求だけが他の動物にはない人間特有の欲求であると言っていたことは有名ですが、このことからも人間であればみな同様に自己実現の欲求を心に秘めてこの世に生まれてきたということが言えるのではないでしょうか。
そうなると、やはり気になってくるのはそれを妨げている具体的な原因ですよね。
消滅するにしろ、無意識下に押しやられているだけにしろ、どうして僕たちは自己実現の欲求に基づいて生きることができなくなってしまうのでしょうか。
この事に関しては、これまで見てきた自己実現の欲求が消える話を別の角度から紐解くことで見えてきます。
3.自己実現を妨げているもの
さてさて、ここからは早速僕たちの自己実現を妨げる要因について掘り下げていきたいと思うのですが、ここではまず先に結論から言うと、その要因となっているものは人間に備わる「自己防衛」によるものです。
これは簡単に言うと、恐怖心から自分を守ろうとすることですね。
もっとも、僕たちは明らかに自分に危害を加えるものやあからさまに危機的な状況下では自己防衛を意識的に発揮し自分を保護しようとしますが、実は無意識下においても自己防衛をはたらかせています。
むしろ、自覚していない自己防衛による行動は実はかなり多いと言っても過言ではないでしょう。
言い換えれば、自分では自己防衛をしているつもりではない「無自覚な自己防衛」がたくさんあるのです。
その事例のなかでも特に有名なのが、「怒り」というものですよね。
これは色々なところでも語られていますが、誰かに対して怒りを示すことは自分を守るために行われていることです。
要するに、脅威を感じる対象から攻撃されないために先に攻撃するための手段として怒りを持ち出しているということですね。
不適切な例えかもしれませんが、自分の身に恐怖を感じたワンちゃん猫ちゃんが「威嚇」する姿がこれに近いイメージかと思います。
ちなみに、マズローはこのことを『攻撃のための攻撃ではなく、反撃なのである』と述べていますが、これはすごく分かりやすい表現ではないでしょうか。
もちろん、怒りには他にも様々な側面がありますが、僕たちの普段の日常の中でも非常に観察・発見しやすい自己防衛のよくある事例だと思います。
そして、大抵の場合、怒っている本人はそれが自己防衛であることに気付いていません。
言い換えれば、脅威を感じる対象・事柄から自分を守るために怒りを使って自己防衛をしているという自覚がないんです。
そして、このような「自己防衛だとは自覚していない自己防衛」は実はたくさんあり、そのうちの一つに、「成長から逃げるための自己防衛」というものがあります。
マズローは、このことを「安全・退行へのベクトルに引っ張られる」というようなニュアンスで説明してくれていました。
要するに、僕たちのなかには真逆の方向を向いている二つのベクトルがあり、一方は「成長したい!」というベクトルであり、もう一方は「安全でいたい!」というベクトルで、後者の安全方向のベクトルが自己防衛のベクトルだということです。
なお、この「成長」をマズローは『前進』や『進歩』という単語でも表現していました。
つまり、僕たちは成長・前進・進歩へ恐怖心から自分でも知らないうちに、安全・退行という自己防衛のベクトルを選択しているということです。
このことの事例は、少し見渡せばいくらでも見つけられるのではないでしょうか。
新しいことにチャレンジするのが怖かったり、変化することを避けていたり、過去に固執していたり、知らない場所には出来るだけ行かないようにしたりという選択は、それこそ無数に日常のなかに見てとれると思います。
転職が怖い、独立する勇気がない、やったことのない仕事に挑戦するよりも慣れ親しんだ仕事をしていたい、といった心理は自己防衛の象徴でしょう。
買った事ない物を買うのを躊躇したり、入ったことのないお店には入りづらかったりするのも自己防衛の一種ですし、知らない人とコミュニケーションをとる際に最初は様子を見ながら遠慮がちに接するのも自己防衛という側面があります。
もちろん、言うまでもなくこれらは必ずしも悪いものではありません。
恐怖心や自己防衛は生物として必要な機能です。
しかし、それに主導権を明け渡してばかりいると、人生はツマラナイもの・味気ないもの・物足りないもの・生きがいややりがいを感じられないもので溢れていく一方です。
そして、何を隠そうこれこそが、僕たちを自己実現から遠ざける要因なのです。
なぜなら、自己実現とはまさに、前進・進歩そのものであり、変化し続けるものだからですね。
コラムの冒頭でも、自己実現とは「過程」であり、自分を極め続けることだと述べましたが、自己防衛が強すぎる場合これは不可能になります。
現状維持、執着、固定的、形式的、紋切り型、過去の踏襲、同じ事の繰り返し、規則的なルーティン、変化しないこと、足踏みし続けることなどは、すべて安全・退行の自己防衛ベクトルです。
そして、繰り返しになりますが、僕たちはこの自己防衛の選択を無自覚にしており、何気ない仕草や言動や当たり前になっている取捨選択などを含めると、その多さは自分の想像を遥かに超えています。
それこそ、欲求の話と同様にまったく自覚できていない無意識下での自己防衛の選択は、少し日常を振り返れば山のように見つかるように思えます。
つまり、自分でも気付かないうちに選んでいる一つ一つの小さな自己防衛の選択により、自己実現がどんどん離れていってしまうのです。
そうして、気付けば、「あれ?自己実現の欲求がない…」であったり「自己実現なんて嘘だ!役に立たない!自分には関係ない!」という状態になるのです。
もしくは、「自己実現したい!」と口では言いつつも、知らず知らずのうちに自己実現から遠ざかる選択を無数に繰り返してしまっていることもあるかもしれません。
いずれにしろ、僕たち現代人は、自分でも知らぬ間に自己実現とは反対の道のりへ歩みを進めていて、しかもそれが当たり前になりすぎているのでそのことにすら気付けないのです。
実際マズローも、それが悪い選択や悪い習慣だとしても、「慣れ」という順応の問題により人はその悪さに慣れてしまうことに注意喚起をしていました。
それが明らかに良い選択ではない、自分の可能性を摘み取るような選択であったとしても、それに慣れてしまえば僕たちは何も感じなくなってしまうのです。
本当に心から望む選択ではない、むしろ本心では選びたくない選択肢だったとしても、そのような選択をし続けることでそれに違和感を感じることはもはやなくなります。
しかも、その選択の結果もたらされる決して喜ばしいとは言えない現実にも、それがどれだけ悲惨なものであったとしても、悪い意味で適応してしまうのです。
マズローはこのことを、次のような表現で述べてくれていました。
『つまり、その悪い影響は、たとえば、連続する騒音や危険性、慢性的な貧しい食物の影響のように、意識的自覚なしに続くかもしれないが、これを意識しなくなるのである。』(人間性の最高価値)
つまるところ、無自覚の自己防衛が更なる無自覚の自己防衛を生みその選択を強化するという負のスパイラルになだれ込んでしまうのですね。
もっとも、少し前にも触れたように自己防衛は一概に悪いものではなく、マズロー自身も防衛の選択も大切であると考えていて、決して防衛の存在そのものを否定していたわけではありませんでした。
とはいえ、それが僕たちの自己実現を阻む大きな要因の一つであり、その証拠にマズローは僕たちが自己実現するための具体的な八つの方法の一つにこの内容を入れていました。
また、このことは欲求階層における「安全の欲求」と特に関りが深い内容でもありますね。
そういった意味でも、安全の欲求が健全なかたちで満たされていなければ、当然自己実現はできませんし、だからこそ階層の下から二番目にマズローは安全の欲求を据えたのでしょう。
4.自己実現へと至らない盲点
さてさて、先程は自己実現を阻む大きな要因となっている壁の一つである自己防衛という観点から自己実現ができない理由を紐解いてみましたが、やはり自己実現に至る一番堅実な方法は欲求階層を健全に満たすことであると言えそうですよね。
生理的欲求はもちろんのこと、安全の欲求然り、それより上位に位置する愛の欲求なども然りで、ここまで触れてきた内容はある意味では欲求階層の話がどれだけ自己実現の話としっかりと結びついており、なぜマズローが自己実現の欲求を五番目に据えたのかということが腑に落ちるようなものではなかったでしょうか。
そして、これらの下地をベースにして、このコラムのまとめとして触れさせていただく内容は、多くの方にとって「盲点であり自己実現へと進めない矛盾点」となっている話です。
この盲点となっている矛盾を解決しないことには、本当の意味で自己実現を理解したことにはならないので、当然ながら自己実現へと歩みを進めることもできません。
そんな、とある矛盾をはらんだ盲点は、実は欲求階層における四番目の欲求である「尊重の欲求」についての話になります。
結論から言うと、多くの現代人が先ほどの安全の欲求以上に満たせていない欲求であり、手をこまねいてしまう欲求が尊重の欲求なのです。
言い換えれば、自己実現を生きられない理由として、欲求階層の構造通りに自己実現の欲求の前に壁として立ちはだかっているのが尊重の欲求の不満です。
そして、さきほどの盲点とは、この尊重の欲求と自己実現の欲求の「関係性」に関する誤解が背景にあります。
つまり、マズローがなぜ自己実現の欲求の一つ下に尊重の欲求を置いたのか、あるいは、マズローがなぜ尊重の欲求を満たしてからでないと自己実現を生きられないと考えていたのかを理解しないと、いつまでもこの矛盾の罠に足をすくわれ、自己実現とは真逆の方向へ進むしかなくなってしまうのです。
むしろ、この矛盾の罠の正体にほとんどの人が気付いていないからこそ、自己実現を実際に生きられる人が少ないとも言えます。
ということで、このコラムの最後に、尊重の欲求にまつわる矛盾点について紐解いてみましょう。
5.自己実現できないことは悪いこと?
そもそも論ですが、自己実現できないことは悪いことなのでしょうか?
もちろん、この問いかけへの答えは十人十色だと思うのですが、結論だけを言うと、自己実現とは文字通り欲求なので、したくないのにする必要はないものです。
少しとんがった言い方をしてしまえば、むしろ、自己実現する理由を頭で考えて理屈や根拠を作り出しただけで、素直な心の欲求として「自己実現をしたい!」と思えていないのであれば、自己実現を目指してもスグに心が疲れます。
そしてなにより、それは本当の意味での自己実現とは真逆のことをしていることになります。
ましてや、ここまで何度も触れたように僕たちは往々にして自分の本当の欲求を把握できておらず、むしろ勘違いすらしているので、自分が自己実現の欲求だと思っていた欲求が実はまったく違う欲求だったという可能性もあります。
つまり、自分の自己実現への渇望が、純粋な意味での自己実現の欲求でないのであれば、自己実現など忘れたほうが良いということなんですよね。
ただの現状不満による自己実現への憧れや、自己実現が承認欲求や安全の欲求を満たす手段に成り下がっていたりすると、自分で自分の首をしめるだけになってしまいます。
そのような事になってしまうくらいなら、自己実現していない自分を受け容れたほうが断然幸せに生きれますよね(笑)
というか、自己実現しないことや真の自己実現の欲求がないことが自分らしさなのであれば、それが「今の自分にとってのリアリティのある自己実現」とさえ言えると思います。
そして、いつか心の底から自己実現したいと思ったときにすればいいのだと思います。
そのような意味でも、結局のところ今現在がどうであれ、それは必ず自己実現への一つの道程になっていますしね。
実際、自己実現とはそのような葛藤や苦悩と向き合いながら歩むものでもあります。
つまり、もし仮に自己実現を生きられないことが自己否定の原因になっていたり、自己嫌悪を感じさせるものになっているのであれば、そのことに変に劣等感を感じずにいたほうがよっぽど毎日をスッキリした気持ちで過ごせるということです。
つまるところ、自己実現は義務ではありません。
そして、自己実現している人が偉いわけでもありません。
そもそも、「自己実現しなければ!」「自己実現できないのはダメだ!」という自己否定や自己嫌悪のスタンスは、自己実現とは真逆の在り方ですよね。
言い換えれば、自己受容がしっかりできてはじめて自己実現の道が開けるのです。
さらに言えば、自己受容ができていない自己実現は、マズローが自己実現とは正反対の性質をもつことになると注意喚起していた、自分を完全に見失った状態であるニセモノの自分を生きている『疑似自己』になる恐れがあるのです。
というか、自己受容ができていなければ、疑似自己にしかならないと言っても過言ではないかもしれません。
だからこそ、少しだけ時間を作って以下のような問いかけをまず自分自身にしてみて欲しいのです。
「自分は本当の本当に自己実現したいのか?」
「そしてそれは本当に今のタイミングなのか?」
「アタマで理屈っぽく考えているだけで、ココロの欲求にはなっていないのではないか?」
「他人や社会の意見に振り回され、他人軸から自己実現を求めているのではないか?」
「一般常識や社会通念から自己実現を目指すべきだと思い込んでいないか?」
「自己実現という存在が自己否定の原因になっているという本末転倒になっていないか?」
こういった問いかけを深く深く自分自身にすることで、その欲求が正真正銘の自己実現の欲求なのかがハッキリしてきてくれるはずです。
そして、これらの事と尊重の欲求を絡めて言えば、自己実現をしなければ自分を認められないのは、まだ尊重の欲求が満たされていないことの証明です。
このような意味でも、自己実現はむしろしないほうが良いのです。
万が一、尊重の欲求がスカスカのまま自己実現の欲求を仮に満たせたとしても、土台が軟弱なので全体としてスグに潰れるでしょう。
つまり、そのようなケースに該当する場合にまずやることは、本当の意味で健全な形で自分の尊重の欲求が満たしてあげ、適切な自尊心と自己肯定感を育むことです。
そして、そのための欲求階層論なのです。
自己実現を生きている人というのは、自己実現できているから自分を尊重し肯定出来ているのではありません。
それとは逆で、自己実現には至っていない段階の自分を受け容れたからこそ自己実現へと進むことができたのです。
つまり、順番が逆なんですよね。
繰り返しにになりますが、自己実現が自分を認める手段になり下がっては本末転倒です。
そして、自己実現によって尊重の欲求を満たそうとしているというのが、自己実現を果たせない矛盾のことです。
この矛盾の罠に気付けずに、盲点となっていることによって、僕たちはいつまでも空回りし続けてしまいます。
これは、さながら自分が座っている座布団を引っこ抜こうとしているかのような構図と言えると思います。
そして、このようなことが背景にあるからこそ、マズローは自己実現の前段階として尊重の欲求を満たすステージを入れたのでしょう。
このコラムの最初に、自己実現とは「ありのままの自分の可能性を謳歌すること」「本当の自分自身で在り続けること」であることに触れましたが、「ありのままの自分」とは「自己実現を果たした理想の自分」のことではありません。
自己実現できていないのであれば、自己実現できていない自分がありのままの自分です。
その自己実現できていない今の自分を謳歌できない人は、仮に自己実現したとしても自分を謳歌できないでしょう。
同時に、「本当の自分自身」というのは、何かを成し遂げた末に手に入る「理想像の自分」ではありません。
どこか遠くに設定した理想像はある種の偽りの自分であり、いまここにいる自分こそが本当の自分自身です。
いまの自己実現できていない自分で在ることができない人は、この先ずっと自分自身で在り続けることはできません。
人参を釣り下げられた状態で走り続ける馬と同じです。
つまり、自己実現できていない自分をしっかり謳歌すること、自己実現できていない自分を受け容れること、あるいは、自己実現すれば幸せになれるという幻想を捨てること。
また、自己実現を尊重の欲求を満たす手段におとしめないこと。
「いつかどこか」で手に入れたい理想像を追うのではなく、「いまここ」のリアルな自分と向き合い、それをまず受け容れて味わいきること。
そうすることで、自己実現への道というのは自ずと開けてくるものですし、いつのまにか自然な流れのなかでその道を歩み始めているものです。
自己実現している人は、「自己実現するぞ!」と思って自己実現したわけではありません。
その時その時でいまの自分と真正面から向き合い、その過程で葛藤し苦悩し、それでも逃げずに本当の自分を掘り下げていき、そのタイミングごとでのありのままの自分を受け容れ、自分の欲求満足を洗練させるなかで、気付けば知らぬ間に自己実現の世界に入り込んでいただけなのです。
少なくとも、彼らは「自己実現すれば幸せになれるから自己実現しよう!」などとは微塵も思っていなくて、もっとナチュラルな自己探求の末に行き着いたのが自己実現だったというのに過ぎないのです。
このような意味で、自分で自分に仕掛けていた矛盾の罠という盲点に気付いて、その自分も含めて尊重してあげることが、はじめの一歩だと思います。
ちなみに、マズローは、少し前に出てきた「自己防衛」というものでさえも尊重するようにと僕たちに伝えてくれていました。
防衛心は駆逐すべき害でも、排除するべき敵でもありません。
マズローにとっては、自己防衛すら手を取り合って進むべき尊重する対象としてのパートナーだったのでしょう。
なお、最後になりますが、尊重の欲求や安全の欲求を健全なかたちで満たす一つのヒントとして、下記の別コラムが参考になるかもしれないので、よろしければこちらも読んでみてくださいね。
ではでは、最後までお読みいただき、ありがとうございました。