マズロー心理学の欲求階層において、「生理的欲求」と「安全の欲求」に次ぐ三番目の欲求として有名な「所属と愛の欲求」。
一方で、この三つ目の欲求を「社会的欲求」と呼ぶ声もあるようです。
むしろ、一般的には「社会的欲求」という名前の方が認知度は高めだと思います。
しかし、多くの人に使われているからといってそれが本当に正しい呼び名とは限りませんよね。
今回は、そんな風にそもそものネーミングすら疑問点や論点になり得る「所属と愛の欲求」について、毎度のことながらマズローの原文を引用しつつ、具体例からこの欲求を満たすコツまで徹底的に解説してみました。
この記事を最後までお読みいただくことで、自分や他者の「寂しい」「虚しい」といった気持ちへの理解が深まり、それらとセットでついてくる「孤独感」や「疎外感」などとも上手に向き合えるようになると思いますよ。
もくじ
1.「所属と愛の欲求」とは?
さて、それではまず、「所属と愛の欲求」とは何なのかについての結論から述べたいと思います。
「所属と愛の欲求」にまつわる要点をまとめると下記のように整理できます。
●「生理的欲求」と「安全の欲求」の両方が十分に満たされると「所属と愛の欲求」が現れてくる
●「所属と愛の欲求」とは一言で言えば「誰かと繋がっていたい」という欲求である
●マズローは「所属と愛の欲求」から「愛の欲求」を切り離しそれについて詳しく語っていた
●マズローの欲求階層においては「社会的欲求」ではなく「所属と愛の欲求」と呼ぶ方が正しい
●「所属と愛の欲求」の満足は個々人の人間の健康とより良い社会の実現において必要であるにも関わらず、現代社会においては不満傾向が強く見られる
おそらく、①や②の内容は特段新しい情報ではないと思いますが、③~⑤に関して詳しく語られることは一般的にはほとんどありません。
しかし、これらの内容までしっかり網羅していないと、「所属と愛の欲求」を正しく理解したことにはならないどころか、表面的な理解が根本的な誤解を生じさせ、結果的に正しい形でこの欲求を満たせなくなってしまうかもしれないのです。
ということで、ちゃんと知ってみると結構面白くて奥が深い「所属と愛の欲求」について、ここからはマズローが書いた書籍の実際の文章を引用しながら、その真のすがたを紐解いていきましょう。
2.「所属と愛の欲求」をマズロー自身はどう説明していた?
さて、「所属と愛の欲求」への理解を深めるために、まず最初にマズロー自身がこの欲求についてどのように述べていたのかをみてみましょう。
マズローは、基本的欲求の説明の際に、『人間性の心理学』という書籍の中で「生理的欲求」と「安全の欲求」について触れた後で、「所属と愛の欲求」について次のような一言から話を始めています。
『所属と愛の欲求:生理的欲求と安全欲求の両方が十分に満たされると、愛と愛情そして所属の欲求が現れてくる。そしてこれまで述べた一連の過程がこの新しい欲求を中心にして繰り返されることになる。』
ご覧いただいて分かるように、マズロー自身も『所属と愛の欲求』という言葉を使っており、その説明では『愛と愛情そして所属の欲求』という表現もしていますね。
そして、その流れでこの欲求の特性についても触れてくれており、その特性はこれ以前に述べられていたルールと一致していると述べています。
マズローはこの文章の前で生理的欲求と安全の欲求の関係性について、両者の満足の優先順位は生理的欲求の方が安全の欲求よりも高く、したがってこの二つの欲求が同時に不満である場合は生理的欲求をまず満たそうとすると語っていました。
また、それと同時に、このような規則に基づき生理的欲求が満たされていなけば安全の欲求は姿を現すこともないことにも言及してしています。
そして、この両者の関係性が「所属と愛の欲求」の欲求にも当てはまるということですね。
つまり、欲求階層においてこの3つの欲求が現われる順番としては、「生理的欲求」→「安全の欲求」→「所属と愛の欲求」の順序であるということです。
また、特別な場合を除けば、欲求が不満時の基本的な欲求満足の優先順位は、「①生理的欲求・②安全の欲求・③所属と愛の欲求」ということになります。
もっとも、この内容はマズロー自身がこの三つの欲求の関係性について確かに「生理的欲求>安全の欲求>所属と愛の欲求」と言っていたことの確認のために触れたものですが、このような前提のもと、先ほどの文に続けてマズローは次のようなことを述べています。
『今や、かつてなかったほど友達や恋人、妻、子どもなどのいないことを痛切に感じてくる。 こういう人は、全般に、人々との愛情に満ちた関係に飢えているのであり、すなわち所属する集団や家族においての位置を切望しているのであり、この目標達成のために一所懸命、努力することになる。』
つまり、生理的欲求と安全の欲求の2つの欲求が満たされることで、「所属と愛の欲求」が非常に大きな影響力を持ち始めるということをマズローは強調しています。
具体的には、マズローが述べているように、「所属と愛の欲求」の満足を求める人は友達・恋人・結婚相手・自分の子どもの不在を強烈に意識するようになります。
それと同時に、その対象や範囲はなんであれ、何かしらのグループやコミュニティ内における自分の立場を確立しようとします。
確かに、人との繋がりや集団内の位置付けにおいて、個々人の好みの差やその強さに程度の差はあれど、基本的には僕たち人間はみんなこの欲求をもっていますよね。
実際の自分自身の体験を振り返ってみても、これらの内容に納得できる人が圧倒的に多いと思います。
しかも、この文章の続きでマズローは更にこの点にフォーカスしています。
『そして、この世の中の何よりもそのような位置を得たいと願い、かつて飢餓状態であった時には、愛などは非現実的で不必要で取るに足らぬことと軽蔑していたことさえ忘れてしまうであろう。今や、孤独、追放、拒否、寄るべのないこと、根無し草であることなどの痛恨をひどく感じることになる。』
つまり、以前は愛情や友情などには無関心で見向きもしなかった人でも、ひとたびこの欲求が頭をもたげれば、孤独であることや仲間外れにされること、あるいは他者に拒否されることだったり存在価値を見出せる場所がないこと、頼れる人がいないことなどに非常に苦痛を感じるとマズローは言っているのですね。
これも多くの方が同意できる話なのではないでしょうか。
孤独感や疎外感に悩まされたこと、誰かに否定されたり拒絶されたりして傷ついたことなどは、誰しもに経験があると思います。
あるいは、表向きはそれを出さないように我慢してはいるものの、心の奥底では真の信頼関係で結ばれた誰かとの繋がりがないことをずっと苦痛に感じている人も珍しくありません。
「一人ぼっち」自体が悪いことではありませんが、そのことに恐怖心や不安を感じやすいのが僕たち人間です。
つまり、どのような関係性であれ、人との繋がりを求める欲求が「所属と愛の欲求」であると解釈できるでしょう。
そういった意味では、これは広い意味で「人間関係の欲求」とも言えるかもしれませんね。
いずれにしろ、これは人間が社会的な生物であるがゆえに他の生物に比べ特に顕著に求める欲求であると言えそうです。
また、あえてこの欲求を感情と紐づけてみると、「寂しい」「淋しい」という心情に結びつくものと言えるのではないでしょうか。
そして、このような感情もおそらくほとんどの方が人生で一度は経験したことがあるものだとと思います。
そういった意味でも、「所属と愛の欲求」とは、これまで生きてきたどこかしらのタイミングで誰しもが一度はつまづいたことのある欲求であるとも言えるでしょう。
むしろ、もし一度も「所属と愛の欲求」を切望した経験がないという人は、それはただ単に自分の中にあるその欲求を見て見ぬふりをしているだけなのではないでしょうか。
もちろん、人によってその頻度の差やスパンの長さや強弱の度合いに個人差はあるにせよ、その欲求と向き合うことを放棄しなければ、人生において必ず一度は深く関わらざるを得ない欲求が、この「所属と愛の欲求」なのだと思います。
というか、この欲求は長い人生において環境や価値観の変化に伴いどんどん形を変えるものなので、向き合う回数は一度や二度ではすまないといった方が正確かもしれません。
仕事かプライベートかは問わず、大切な人や愛しい人との死別・離別や、お気に入りのコミュニティから離れざるを得なくなったり、大事にしていたチームやグループ自体が無くなってしまうことは人生において往々にしてあり得ることです。
むしろ人によっては、物心ついてから今までずっと苦悩し葛藤し続けてきたのが「所属と愛の欲求」であったという人もいるでしょう。
いずれにしろ、これらの事も踏まえて考えると、「所属と愛の欲求」というのはとても「人間らしい」欲求、あるいは「人間くさい」欲求なのだと思います。
なぜなら、人間に非常に近い動物と言われ、同じような社会性をもつお猿さんでも、人間ほど深くこのような悩みに葛藤することはないはずですからね(笑)
なお、この事の補足としてお伝えしておきたいのが、長期にわたり満たされた欲求というのはその価値を過小評価されるという特徴があるので、「所属と愛の欲求」がそれほど強くない場合は、このパターンに当てはまっているのかもしれないということです。
このことも含め自分の「所属と愛の欲求」が健全に満たされているのかを振り返ると、「なぜいつも孤独感にさいなまれてしまうのか」「寂しさを感じる本当の要因はなにか」といったような疑問に対する何かしらの新しい発見があると思います。
そして、もしその満足に懸念があったり、不満の原因や対処法が分からないのであれば、それらをクリアにし自分に最もしっくりくる形で「所属と愛の欲求」と良好な関係性を確立する必要があります。
いわんや、時代の流れに伴う社会構造・人々のライフスタイル・価値観の変化によって、その満足度が影響されやすいのが「所属と愛の欲求」の欲求なので、たとえ現在は満たされていたとしても今後の人生においてはどうなるか分からないのがこの欲求なのですね。
ということで、このような前提のもと「所属と愛の欲求」の全体像が見えたところで、続いてはマズローが語るこの欲求の具体例に触れることで、「所属と愛の欲求」の本当の満足へ向けてのヒントを探してみましょう。
3.「所属と愛の欲求」の具体例
さて、「所属と愛の欲求」の具体例を把握するために、まずは先ほどの引用文と同じ流れで語られていた次のようなマズローの発言に注目してみたいと思います。
『私の強い印象によれば、いくつかの若い反抗集団ーどのくらいあるのか私はわからないがーも同様に、集団性を求め、接触を求め、共通の敵(外的脅威をもうけることにより単純に仲間集団を形成できる)を前にしての現実的団結を求める深い渇望により動機づけられているのである。』
つまり、親や教師や社会に反抗的な若者たちは、家庭や学校内に自分の「所属と愛の欲求」を満たしてくれる繋がりがないので、それを求めて一つの組織として集まるということですね。
また、これとは別にいわゆる「いじめ」といった問題も、特定の敵を作りだすことで自分の居場所や他社との繋がりを守ろうとする「所属と愛の欲求」の表れであるということも言えると思います。
しかも、これらのパターンは「自己防衛」という意味での安全の欲求に紐づいているケースもあるため、その場合は更に渇望感は強くなります。
このような若者による反抗は、昭和・平成の時代であればいわゆるヤンキー・暴走族・不良といったものがその代表例と言えそうですし、令和以降はネット上の世界に同様の現象が見られる傾向が強いですよね。
ちなみに、若者に限らず、昨今よく見られるSNSの炎上や、不倫や浮気等に対する過剰なバッシング、あるいは企業や政治家の不正や虚偽に対する過度な攻撃なども、「所属と愛の欲求」への欠乏感が一役買っていると個人的には思っています。
なお、このことを裏付けとも言えるようなことを、マズロー自身も先ほどの文章の続きで述べていたりします。
『同じことが戦士集団でも観察された。彼らは、共通の外的危険の存在により、めつたに見られない兄弟的情愛や親密さに駆り立てられたし、その結果、生涯を通して助け合い離れない場合もある。』
つまり、戦地におもむいた兵隊たちにも共通の敵の存在を通してより団結する傾向があり、なおかつその関係性への依存が一生続く事さえあるほどにその渇望感は強いのです。
そして、このような形での仲間意識の形成や所属感を満たしてくれるグループへの依存が、社会全体にはびこっているということになります。
その根拠として、この一連の流れのなかでマズローは次のようなことに触れています。
『Tグループや他の個人的成長集団や意図的共同体などが非常に急激に増加したのは、部分的には、接触、親密さ、所属などが満たされず、それへの渇望によるものであろうし、また広く見られる疎外感、孤独感、異和感、孤立感などを克服したいという欲求により動機づけられているものと思われる。』
マズローがこの文章を書いたのは1960年代前後であり、このTグループというのは、当時のいわゆる自己啓発や成功哲学やビジネスに関わる組織の総称のことです。
こういった団体の増加も含め、多くのコミュニティが生み出され意見や興味関心が一致する組織が急増した背景に「所属と愛の欲求」の不満足が存在しているとマズローは考えていたのです。
そして、言わずもがなこの傾向は現代においても見られるものですよね。
一概には言えないものの、またそれが良いか悪いかは別にしても、人間同士の繋がりというのが量の意味でも質の意味でも希薄化していることは一つの事実であるように思います。
なお、マズロー自身も当時からこの点に関しては注意喚起をずっとしてくれており、それは次のような文章からも垣間見ることができます。
『(疎外感、孤独感、異和感、孤立感などを克服したいという)感情は、我々の可動性によって、また伝統的集団形成の崩壊、家族の四散、世代間隔差、定着した都市化や村にある対面性の消失、アメリカ的友情から生ずる皮相さなどにより悪化してきたのである。』
先ほども触れたようにマズローが活躍したのは主に1960年代ですが、それからかなりの年月が経過した現代においても、これら問題は根本的な解決はしているとは言えなさそうです。
つまり、今の時代に生きる僕たちは、社会的なスケールにおいても、個々人内の範囲においても、「所属と愛の欲求」を健全に満たすことができているとは到底言えないと思います。
その証拠が、ここまで見てきたような「所属と愛の欲求」に対する飢えからくる攻撃性や、自分の安全を担保してくれる場の創出とそこへの依存心、あるいはそれらを失うことへの恐怖心と自己防衛なのではないでしょうか。
いずれにしろ、これらの事柄を踏まえながら、自分自身の他者との繋がりや、社会に見られる「所属と愛の欲求」にまつわる問題を俯瞰することで、この欲求の具体例を自分事に落とし込むことができると思います。
ちなみに、「所属と愛の欲求」を説明する補足単語として、マズローは『近隣、なわ張り、 一族、自分自身の「本質」、 所属階級、遊び仲間、 親しい同僚』などを挙げており、これは非常に重要であるとも述べているので、こういった言葉からこの欲求を掘り下げてみると、そのすがたが更に明確になりますよ。
さて、ということで、「所属と愛の欲求」の事例について触れたことでその輪郭がいくぶんハッキリしてきたところで、続いてはこの欲求を構成する「愛の欲求」に関するマズローの主張に触れてみましょう。
4.「愛の欲求」とは何か?
ここではまず、このコラムの冒頭でご紹介したマズローの文章を再度引用してみたいと思います。
『生理的欲求と安全欲求の両方が十分に満たされると、愛と愛情そして所属の欲求が現れてくる。』
ここで気になった方がいるかも入れないので補足をしておくと、この文章の「愛と愛情」という部分に関しては、原文では『love and affection』という英語で表現されています。
この「affection」は「愛情」「優しい思い」と和訳される英単語で、「love」と「affection」の違いは、「love」は情熱的で燃えるような流動的な愛情というイメージである一方、「affection」は温和で慈しみのような優しく永続的な愛情というイメージであると捉えていただければと思います。
つまり、マズローは「愛の欲求」においては、「love」と「affection」という二つの視点でこの欲求の全貌捉えていたということですね。
言い換えれば、「愛の欲求」には「love的な愛」と「affection的な愛」があるということになります。
そして、この両者の違いを更に明確にするために、マズローが「所属と愛の欲求」の説明の中で語っていた「愛と性欲の違い」についての次のような発言を見てみましょう。
『ここで強調しておかなければならないのは、愛とは、性と同義語ではないということである。 性は、純粋に生理的欲求として研究される。』
つまり、性欲というものは、欲求階層上の分類で言えばそれは生理的欲求に含まれるものであり、「愛の欲求」とはまったくの別物であるということです。
この事は、愛情表現ではなく単純に性欲を満たすためだけのセックスが存在することや、いわゆる自慰行為が存在することからも分かる話ですよね。
そして、この文章の続きで、マズローは次のように述べています。
『通常、性的行動はいろいろな要因により決定されるのであり、すなわち性的欲求だけでなく他の欲求によっても決定され、 その主なものが愛と愛情の欲求なのである。また愛の欲求は、与える愛と受ける愛の両方を含むという事実も見落としてはならない。』
つまりマズローは、いわゆる性的行動は「生理的欲求に基づく性的行動」と「愛の欲求に基づく性的行動」があると考えており、なおかつ愛の欲求は「与える愛」と「与えられる愛」の両方の側面があるとの考えを持っていたのです。
なお、この「与える愛」と「与えられる愛」という二種類の愛についてマズローは複数の書籍にわたり多くの文面を割いて説明してくれているのですが、その詳細に触れることはこのコラムの本題から外れるだけでなく文章量が膨大なことになってしまうので、今回は割愛させていただければと思います。
もっとも、ここでキモとなる大切な視点は、「愛の欲求は生理的欲求としての性欲ではない」ということです。
言い換えれば、性欲が満たされる愛情表現もあれば、性欲は満たされなくとも「所属と愛の欲求」が満たされる愛情表現があるということです。
実際、たとえば両親の我が子に対する愛情は、性欲を満たすためのものなどではありませんよね。
それこそ、子どもを含め家族や親族へ対する愛や思いやりは、「affection」的な慈愛といった類の愛情でしょう。
もしくは、部下や後輩に対して、優しく包み込むような愛情を感じる場合もありますよね。
同様に、「love」的な情熱的な愛によって、「所属と愛の欲求」が満たされることもあります。
自分が相手を大切にしていることを積極的に開示し、全力でそれを伝えることで、所属感や一体感を感じられることがあります。
もっとも、日本人は他の国々の人と比べて「love」的な愛情表現はニガテですが(笑)
いずれにしろ、love的かaffection的かに関わらず、「愛の欲求」というのは、人との繋がりの中で育まれるものなのです。
なお、一般的に「自己愛」と言われるものは、先ほどのマズローの言葉で言うところの「与えらえる愛」であり、それは欠乏感を動機にはたらく愛なので、「所属と愛の欲求」に含まれるのかは何とも言えないでしょう。
したがって、これらの事も踏まえて、自分の愛情表現が性欲と愛の欲求のどちらに基づくものなのかや、愛の欲求のなかでもlove的なのかaffection的なのかを観察してみると、「所属と愛の欲求」への理解がより一層深まると思います。
少なくとも、その愛情表現が相手との健全な形での繋がりを感じられるものであるか否かは、自分の「所属と愛の欲求」をしっかり満たすためにも見極める必要があるものですね。
さて、ということで、「所属と愛の欲求」から「愛の欲求」を部分的に切り取ることで「所属と愛の欲求」のすがたを更にクッキリさせられたところで、続いてはいよいよこの欲求を満足させる方法について掘り下げていきましょう。
5.「所属と愛の欲求」の満足させる方法
さて、「所属と愛の欲求」の満足方法について、マズローはどのような見解を持っていたのでしょうか?
実は結論から言うと、「所属と愛の欲求」の満たし方を、明確に説明してはいません。
『「所属と愛の欲求」を満足させる5つの方法』のような形で整理していてくれると僕たちとしては嬉しかったのかもしれませんが、残念ながらそのような形でこの欲求の満足のさせ方を述べてはいませんでした。
しかし、マズローが語った「所属と愛の欲求」に関する別の主張を深ぼることで、この欲求の満足させ方の一つのヒントが垣間見えてきます。
ということで、ここでマズローが述べていた幼少期の経験と「所属と愛の欲求」の関係性についての見解を見ましょう。
『一般に、子どもへの有害な影響として次のようなことが考えられる。すなわち、転居が多いこと、見通しのないこと、高度産業化に伴って強制される過度の移動、 祖先がわからないことや出身・祖先・所属集団を馬鹿にするこ と、家や家族・友人・近隣から引き離されること、 定住者ではなく短期滞在者あるいは新参者になることなどである。』
この内容は、一般的にも語られている事なので特に補足は必要ないと思いますが、一方で、マズローはこの続きでこのようにも述べています。
『たとえば、人生初期に愛の満足を得ていた大人は、 一般人よりも現在、安全や所属や愛の満足を求めないのである。…愛や人望の欠乏に最も耐えられる人は、強く健康な自律的人間である。しかしこの強さや健康さは、普通は、社会の中で発達の初期に長期にわたって安全、愛、所属、尊重などの欲求が満たされることにより生み出される。』
つまり、マズローは「所属と愛の欲求」というのは比較的人生の初期においてこれらが満たされていた否かがポイントになると考えていたのです。
なお、この「人生の初期」というタイミングが具体的にいつ頃までなのかは明示されておらず、これには当然個人差があることを考えると、むしろマズローはあえてこういった少し抽象的な表現をしたと思われます。
あるいは、この「人生の初期」を人生のどの期間に置き換えるのかは、受け取り手本人に委ねている気もします。
いずれにしろ、「マズローが考えた人生の初期とはいつなのか」にこだわるよりも、このマズローの主張を踏まえて自分の人生を振り返ったときに各々がどう感じるかの方が大切であると思います。
それは言い換えれば、「人生の初期」をいつにするかは自分次第であり、もっと言えば、今現在を「人生の初期」と捉えることでこれからの自分の人生をより有意義なものにできるということなのではないでしょうか。
これは、無理やりポジティブシンキングにもっていこうとしてるように思えたり、ただのキレイごとのように聞こえるかもしれませんが、少なくとも「自分は人生の初期にこの欲求が満たされなかったからダメだ…」と決めつけてしまうことは、このタイミングでのせっかくのマズローとの出会いを通じて自分の人生をより良くすることには繋がらないと思います。
それに、どのような子ども時代を過ごしていたとしても、これまでの長い人生の中できっと誰しもが次のようなことを感じた経験はありますよね。
「何気ないことで誰かと笑いあったことがある」
「自分と相手との共通点が見つかり嬉しくなった」
「自分の意見にしっかりと耳を傾けてくれた人がいる」
「今でも大切にしている誰かと一緒に過ごした思い出がある」
「自分を気にかけてくれ嬉しくなったことがある」
「あの人は自分が辛いときにいつも寄り添っていてくれた」
あるいは、普段の生活では意識することはなくても、心のどこかでこのような思いを抱いている方がほとんどだと思います。
「照れくさいけれど、感謝を伝えたい人がいる」
「その人が困っていたら、手を差し伸べてあげたい」
「その人が悲しんでいたら、優しい言葉をかけてあげたい」
「決して多くはないけれど、温かい気持ちになれる繋がりがある」
「いつか何かしらの形で、あの人に恩返しがしたい」
「次は自分が何かを与える存在になりたい」
「無理のない範囲で自分なりに社会に貢献したい」
「戦争や奪い合いではなく世界平和が訪れてほしい」
その姿かたちや感じ方は様々だと思いますが、こういった経験や感情も私たちの人生には存在してくれています。
こういった経験と共に感じる「親近感」や「一体感」、もしくは「安心感」や「充実感」など、あるいは、ほっこりとした温かみのある柔らかい気持ちや、それに伴う「嬉しさ」「喜び」などは、「所属と愛の欲求」が満たされたとき特有のものな気がします。
言うまでなく、僕たち人間というは「当たり前」だと感じることには見向きもせずに、その存在すら忘れてしまう生き物です。
そして、「所属と愛の欲求」に深く関わる「人とのコミュニケーション」においては特にその傾向が顕著に見受けられると思います。
そういった意味では、この欲求というのは、新しい繋がりをつくりそれを強固にしていく一方で、これまでの繋がりや現時点での繋がりにもう一度目を向けることを通してでも、十分満たすことができる欲求なのではないでしょうか。
そして、いまある繋がりに目を向けることからスタートして、その過程で自分の中の「所属と愛の欲求」としっかり向き合うことで、それをまっとうな形で満たしてあげることができるのだと思います。
そして、そのようにして上手に欲求と付き合えるようになることで、結果的に「所属と愛の欲求」の満たされなさにも耐えられる内面も共に養うことができるのでしょう。
要するに、ないものではなく今ある関係性に目を向けるということですね。
言い換えれば、「無いものねだり」ではなく「あるもの探し」をすることで、無理なく自分の「所属と愛の欲求」を満たし、その関係性を大切にしつつもそれに依存することはない自立した状態で他者との繋がりを優雅に創り上げることができるようになるのでしょう。
実際、マズローが自己実現していると認めた人々は、理想的な人間関係の中で生きています。
それは本人にとって最も望ましい関係性であるだけでなく、相手にとっても本質的にフィットしている関係性であり、利他と利己が対立せずに調和した関係性です。
そのような繋がりを自分が関わる一人一人とつむいでいくことで、真の意味での自己実現はなされるのです。
そして、そういった人々が増えていき、健全な形で育まれた「所属と愛の欲求」の輪っかが広がることで、地球全体の「所属と愛の欲求」が満ちていくのかもしれません。
マズローも、「所属と愛の欲求」の説明でこう語ってくれています。
『良い社会はすべて、もしそのまま存続して健全であろうとするなら、この欲求を何らかの方法で満足させなければならないのである。』
なんだか最後はやけに壮大な話になってしまいましたが(笑)、やはりまず大切なのは自分の目の前にいる人とのつながりを見直すことなのではないでしょうか。
マズローの語る内容をしっかりと理解し自分事に落とし込むことで、自分と周りの人々の「所属と愛の欲求」を良好な状態にしていきたいものですね。
●生理的欲求と安全欲求の両方が十分に満たされると、「所属と愛の欲求」が現れてくる
●「所属と愛の欲求」とは一言で言うならば「人との繋がりを求める欲求」である
●愛の欲求と性欲は別物であり、愛の欲求は「与える愛」と「与えられる愛」の両方を含むとともに、「love的な愛」と「affection的な愛」に分けて捉えることができる
●「所属と愛の欲求」は、より良い社会や個々人の健康にとって必要であるが、現代社会においては不満傾向が強く見られる
●「所属と愛の欲求」が人生の初期に満たされていたか否かが、この欲求のその後の満足度合に強く影響を与える
●社会全体として人々の「所属と愛の欲求」を健全に満たすよう努めることが大切である
★なお、本当はこの記事の中で「社会的欲求」と「所属と愛の欲求」の違いや、どっちのネーミングがマズローの真意に沿っていたのかも触れたかったのですが、流れ上の関係でその内容は下記リンクの別のコラムでまとめさせていただきました。