「ヨナ・コンプレックス」という言葉は比較的マニアックなワードと言えますが、しかし実は多くの方が自分でも気付かぬうちにこれに該当しているということはご存じでしょうか?
そして、自分の中にこのヨナ・コンプレックスが潜んでいると、僕たちの人生は空回りし続けることになり、結果的にいつまでたっても本当に望む人生を生きることができません。
あるいは、僕たちの自己実現をこのヨナ・コンプレックスが阻んでいるというケースが非常に多いというのも、一つの知られざる事実だったりします。
今回は、そんな自分の人生を知らぬ間に窮屈にし高い障壁にもなりえるようなヨナ・コンプレックスについて、マズローの著作から実際の引用文なども使いながら分かりやすくまとめてみました。
もくじ
1.ヨナ・コンプレックスとは?
ここでは、まず結論から言いたいと思います。
ヨナ・コンプレックスとは、自分のなかに眠っている能力を発揮させることで自分が変化してしまうのを恐れていることです。
要するに、内に秘める本当の能力を発揮せずに平凡のままでいた方が、自分が変わらなくて済むので安心できるんですね。
基本的に僕たち人間は変わることに恐怖を感じているので、知らない間に無難な選択や現状維持を選びがちですが、この背景にヨナ・コンプレックスが存在する可能性があるということになります。
なお、これは、いわゆる幸せ恐怖症、成功恐怖症、インポスター現象とも近い意味合いの言葉ですね。
しかし、この説明はあくまで一般的な意味合いで使われるヨナ・コンプレックスの話であり、マズローの語るヨナ・コンプレックスの意味は実はもっと深い意味をもっています。
というのも、マズローが人間に秘める可能性を肯定的に捉え、その一つの概念として「自己実現」という言葉をビジネスの世界を中心に世に広めたのは有名ですが、一方でそれを阻害する要因を明らかにすることに心血を注いでいたのは意外と知られていないことでもあるからです。
そんな、人の心の両面性と真っ向から向き合ったマズローは、ヨナ・コンプレックスについて実際どのように語っていたのでしょうか?
2.マズロー心理学におけるヨナ・コンプレックス
さて、ここでもまず最初に結論から述べましょう。
マズローの語ったヨナ・コンプレックスとは「成長を妨げる防衛」のことであり、マズロー自身の言葉を借りれば、それは『自己の偉大さを恐れる心』『運命からの逃避』『自己の最善の能力からの逃走』と呼ばれるものです。
これを別の言葉で言えば、自分に眠る素晴らしい本性やありのままの個性を発揮することを恐れること、と言い換えてもいいと思います。
そしてこれれは、「自分の内に秘めたあるがままの可能性を思う存分発揮したい!」という欲求である「自己実現の欲求」と真逆にはたらくベクトルです。
つまり、僕たちには、「最高の自分を実現したい!」という気持ちとそのことを恐れる気持ちの両方が内在しているのですね。
最低最悪な結果はもちろん拒否しますが、実は心の奥底では最高最良の結果もあまり望ましいとは思っていないものなのです。
したがって、どちらかに振り切るよりも中間的で無難な立ち位置や、望ましくはないものの最悪ではないという意味で我慢できるぼちぼちの現実に着地しようとするんです。
少し厳しい言い方をすれば、自分の本当の宿命や使命を生きるのではなく、平凡で凡庸なありきたりだけど無責任でいられる「ぬるま湯」につかろうとするとも言えるかもしれません。
ここまでの表現は、少しパンチ力のありすぎるものだったでしょうか?(笑)
とはいえ、これは僕たちにとって往々にして起こり得ることであり、このヨナ・コンプレックスへの理解を深めることで自分の本当の人生を生きられるようになるというのは一つの事実だと思います。
ということで、ヨナ・コンプレックスを更に色々な角度から理解するために、ここでこの言葉の元々の語源について簡単に触れてみましょう。
ヨナ・コンプレックスという言葉の元々の語源は、実はキリスト教の旧約聖書に登場する「ヨナ」というユダヤの預言者の名前に由来しています。
旧約聖書のなかで、ヨナは神からある使命を与えられます。
ところが、ヨナはその使命を遂行することで降りかかるであろう災いへの恐怖心から、この命令を拒否して自分の宿命から逃れ船に乗って逃げ出してしまいます。
しかし、その船は神によって嵐に巻き込まれ、ヨナは海に投げ出され、神が用意した大きな魚に飲み込まれてしまうんです。
もっとも、それでヨナは死んでしまうのではなく、自分をのみこんだ魚によって使命をまっとうするべき土地へと運ばれ、その場所で口から吐き出されるという展開になるんです。
そして、そのような流れを経て自分の使命に従ったヨナは、結果的には当初抱いていた悲惨な現実にはならずに、むしろハッピーエンドを迎えことになります。
つまり、ヨナは最初は恐怖心から自分に課せられた本当の人生を歩むことから逃げてしまったものの、実際にその人生を生きてみれば想像していたような不幸には巡り合わないどころか、望ましい結果を生むことができたということですね。
マズローは、宿命から逃れようと必死にもがくヨナのすがたを、恐怖心から自己実現を生きようとしない人々に重ね合わせたのでしょう。
なおかつ、恐れと向き合い自分に眠る真の価値を発揮することで喜ばしい現実を創り出すことができるという点でも、旧約聖書のヨナの物語は自己実現を実際に生きることができている人々の人生とも一致しています。
言うなれば、現代に生きる僕たちのほとんどが、神の使命から逃れるヨナのようにマズローの目には映っていたのだと思います。
そして、だからこそマズローは自己実現の研究に生涯を捧げ、その道のりの特徴や自己実現へと至る具体的な方法・注意点、また、実際に自己実現している人々に見られる共通点などを僕たちに教えてくれています。
ちなみに、マズロー自身はヨナ・コンプレックスについては、マズローの代表作である『人間性の最高価値』という著作の中で次のように表現しています。
『われわれほとんどの者は、現実のわれわれより立派になることが可能である。われわれはすべて、使っていない潜在能力、完全に発達をとげていない潜在能力をもっている。われわれの多くは、素質的にもっている使命を避けようとするのも確かに事実である。したがって、往々にして、われわれは、生まれつき、または宿命的に、ときには、偶然に、命ぜられた責任を免れようとするのである。』
これはまさに、これまで見てきたヨナ・コンプレックスの内容そのものと言える文章ですね。
この内容を少し別の言葉で言えば、多くの人々が自分の使命から逃げ回る代わりに、自分のメンツを保てる社会から与えてもらったそれっぽい命令に従うことで、自分の責任から逃れることを選んでいるとも言えると思います。
しかも、このような逃避をすることで、自ずと私たちは無意識のうちに自分の可能性を低く見積もるようになります。
そうすることで、自己実現との葛藤をせずに済むからですね。
あるいは、周囲から逸脱しないことで安心感を得ているという側面もあるでしょう。
いずれにしろ、自分の限界を低く設定し、それらしい理由を探して根拠づけし、仮置きした限界がさも事実であるようにでっちあげ信じ込むことで、本当の自分から目をそらすことができてします。
しかも、それを自分でも知らず知らずのうちにやっているのが、ヨナ・コンプレックスの恐ろしいところなんです。
「自分なんてこんなもんさ」
「この程度のレベルの人間だろう」
「私にできることなんてたかが知れてるよ」
「僕なんてなんの取り柄もないダメ人間さ」
「こんな現実でもありがたいと思わなきゃ」
「私には世界を変えることなんて無理無理」
「自分には大きな夢も尊大な志もありゃしないよ」
「自己実現する能力も価値も自分にはないに決まっている」
僕たちは、このような言葉を自分で自分に投げかけ自己暗示することで、自分の可能性に蓋をしてしまうのですね。
言い換えれば、本当は自分の奥底に眠っている内なる光が漏れ出すことを恐れ、秘めたる思いが再燃することが怖いので、自分の本性を頑丈な倉庫にでも入れるように押し殺しているのです。
そしてそれを正当化するために、「だって〇〇だから」「実際〇〇なんだもん」という理由をこしらえて、結果的に自己保身の「しょうがないじゃん」に落ち着こうとしてしまいます。
これは程度の差こそあれど、大袈裟に言えば、多くの現代人が陥っている呪いとも言える気がします。
むしろ、誰もが自覚せずにやっていることであると同時に、周りを見渡せば同じような人ばかりなので、これを問題視することもないのです。
人によっては、このことによって感じている不満や窮屈さを攻撃性に変えてしまい、いわゆる成功者を見て彼らを批判したりもします。
あるいは、批判することはしなくとも、自分らしくイキイキと社会で活躍している人を見て、うらやんだり妬んだりするパターンもあるでしょう。
実際、マズローもこれらの副作用的な感情について次のように話してくれています。
『われわれは、確かに、真理や善や美や正義や、完全無欠や究極的な成功を実現した人びとを、すべて、愛し、尊敬する。にもかかわらず、彼らは、われわれを落ち着かなくし、不安にさせ、困惑させ、おそらくは、いささかうらやましく、ねたましく思わせ、多少の劣等感や、みっともなさを感じさせるのである。』
つまり、自己実現から遠ざかっている人は、自己実現している人見ると落ち着かなくなることがあるのです。
彼らの素晴らしさを肌で感じると、理由は分からなくともなぜかモヤモヤしてくるんですね。
そして、言うまでもなく、それは自分に眠っている真の可能性を思い出させるからでしょう。
彼らに対し劣等感や恨みや妬みを感じるのは、自分にも同じだけの素晴らしい可能性があることを心の奥底では知っているからです。
自分は自分の可能性と対峙することから逃げ回っているのに、それと真正面から向き合い輝いている自己実現者たちをうらやんでしまうのですね。
そしてときには、彼らに敵意を抱くこともあります。
あるいは、これは別のところでマズローが語っているのですが、場合によっては自己実現している人というのが自分に対して意図的に劣等感を感じさせようと捉えることもあります。
自分はその標的という被害者になってしまったと思い込もうとするのです。
もしくは、人として輝いている人物と自分を比較することで、更に自己否定をすることでヨナ・コンプレックスを加速させるケースも往々にしてあると思います。
いずれにしろ、ヨナ・コンプレックスに陥っている人は、これとしっかりと向き合わなければ、いつまでもモヤモヤした気持ちを抱えたまま生き続けることになるのは言うまでもないことですよね。
さてさて、ここまでの話に触れたことで少し心がネガティブな気持ちになってしまったかもしれませんので、ここで少しお口直しの余談をさせていただければと思います(笑)
もっとも、余談と言っても、この後の話もヨナ・コンプレックスを理解する上ではとても大切な視点と言えるお話しです。
3.ヨナ・コンプレックスの隠れた実例
マズローは、ここまで触れてきたヨナ・コンプレックスの特徴は、宗教における神様への気持ちにも同じ傾向があると考えていました。
これはどういうことかと言うと、マズローは、いくつかの宗教においてそこで神聖とされていることや危険だとされていること、あるいはタブーとなっている場所や対象があることについて触れたうえで、次のような文章でこれらの事柄とヨナ・コンプレックスの関係性を述べてくれています。
『われわれは、神あるいは神性なるものとの、直接的対決の普遍的なおそれを自覚するようになる。【中略】大抵の場合、最高のもの、最上のものの前では、畏敬や畏怖の念が起こるものなのである。』
つまり、神や偉大なる存在を崇め奉ることは、そのような対象への恐怖心とも紐づいていることがあるということです。
実際、仮に無宗教の人であったとしても、子どもの頃に「悪いことすると神様が見ているからね!」「そんなことしたらバチが当たるよ!」といったような言葉を見聞きする機会はたくさんありますよね。
したがって、神様を信じるか信じないかや、どの宗教に属しているかに関わらず、現代に生きる多くの人が心のどこかで目に見ない偉大な存在から罰を受ける可能性があるということを薄っすらと感じているということです。
そして、これらの観念は恐怖心を生むだけでなく、ヨナ・コンプレックスをより強固にさせる原因にもなりえるのです。
つまり、神のような偉大な存在と自分を比較することで、自分を低く見積もることができるんですよね。
場合によっては、自分のダメさを確固たるものにするために神様を利用していることもあると思います。
言い換えれば、このようなタイプの人の信仰心の根底には、神様という存在に依存することで自分の限界を低く設定したいという歪んだ心理があるのです。
そのために、その傾向が特に強い場合は、崇拝する対象に度を超えた尊敬を抱いたりします。
そしてその対象の偉大さを誇張することで、自分の本性のダメさ加減を再確認しているというのが、神や宗教という視点でみたヨナ・コンプレックスの一つの事例になるということです。
もちろん、このことは人によっては余りピンと来ない話かもしれませんが、結局のところ、その対象が実在する偉人であれ実体のない存在であれ、自分で自分をおとしめることができればヨナ・コンプレックスをもつ人からしたらそれで構わないのですね。
そうやって自分の可能性の伸びしろを叩き割ることで、防衛は成功なのですから。
また、このようなことも含め、ヨナ・コンプレックスにおける「防衛」という側面からマズローが語っていた「自己実現の失敗例」についても、ここで触れておきたいと思います。
マズローは、先ほどの神とヨナ・コンプレックスの関係性についての文脈のなかでこのように述べています。
『人によっては、低い要求水準を設定したり、できることをやるのを恐れたり、自らすすんで不完全な人間になったり、愚かしくみせたり、いんぎん無礼になったりして、成長を避けるのは、事実上、誇大、尊大、罪なうぬぼれやごうまんに対する防衛なのである。』
つまり、自分の価値を低く見限り、内に秘めたる大いなる本性をさげすむのは、自惚れや傲慢への防衛反応でもあるのです。
言い換えれば、自分がおごりやうぬぼれに陥ることを防ぐために、自分の可能性を閉じておくんですね。
少し違う言い方をすれば、僕たちは成長することで自分が傲慢になることが怖いとも言えます。
成長に伴って自信がつき自己評価が過度に高まることで、偉そうに振舞ったり自分の業績を誇示したり誇張することを恐れているのです。
おそらく、誰しもが人生において一度や二度、このような傲慢さから痛い目を見た経験したことはあるのではないでしょうか。
天狗になってしまい、それが原因で心が傷ついたような体験です。
過大評価していた自分が実はそれほど素晴らしいものではなかったという、現実に打ちのめされると表現されるような出来事は、大なり小なりあると思います。
特に勉強やスポーツなどにおいてこの経験をしたことがあるという場合が多いかもしれません。
「自分はスゴいんだ!」「自分は優秀なんだ!」と思っていたら実はそうではなかったというストーリーを経験することで、鼻がポッキリ折れてしまう感じですね。
そして、同じような痛みを感じなくていいように、粛々と生きるようとするのです。
なお、映画や小説やマンガなどでおごりやうぬぼれで失敗した描写を見ることで、それらを拒絶する気持ちが身に付いたという場合も多いでしょう。
こういった物語で描かれるおごり高ぶった権力者・支配者・勝者・成功者は、たいてい足元をすくわれ失脚したり命を落としたりします(笑)
そのような物語に触れることでも、僕たちは無意識に自分を自粛するようになってしまうのでしょう。
言い換えれば、「扱いきれずに暴走しても大変だから、あんまり大きな力をもたないようにしよう」と思うということです。
「高みに辿り着いたことによる弊害に自分は対処できなさそうだから、そこそこの人生で満足しておこう」と心に決め込むのですね。
もちろん、現状に感謝したり、いま目の前にある現実のありがたさをちゃんと享受することは大切ですが、成長する恐れによって前に進もうとしないのはこれとはまったく別の話です。
自分で設定した「適度な身の丈」や「現実的な等身大」は、ただのヨナ・コンプレックスかもしれません。
「こんなもんさ」という自分へ貼った不健全なレッテルは、マズローに言わせれば防衛本能による自己保身に過ぎないのです。
自分が「現実的」だと思っていたものは実はただの「現実逃避」だったということが、僕たちのなかには意外と少なくないのかもしれませんね。
さてさて、ここまで間髪入れずに怒涛のヨナ・コンプレックスパンチを繰り広げてきました(笑)
ここまでで、マズローの語っていたヨナ・コンプレックスの概要はお分かりいただけたかと思います。
となると、やはり次に気になるのが、自分がヨナ・コンプレックスに該当していた場合における具体的な対処法ですよね。
一体どうして、僕たちはこのようなヨナ・コンプレックス状態にいとも簡単に陥り、なおかつそのことにハッキリとした自覚も持つことなく、窮屈な日々を送ることに甘んじてしまうのでしょうか?
だって、子どもの頃は、僕らは誰しも無限の可能性を信じられていましたよね?
少なくとも、自分の限界値を低く設定し、ヨナ・コンプレックスによって自分の可能性を最小化することなどはしていませんでした。
大人になって忘れてしまっていたとしても、幼い頃は自分はなんにでもなれることに疑いを抱いていなかったはずです。
あれから年月が経ったいま、自分の可能性に無限の広がりを感じられないのは、なぜなのでしょうか?
4.ヨナ・コンプレックスから解放されるには
ここでは、ヨナ・コンプレックスに埋没してしまう結論だけ言わせていただくと、それは決して世間を知ったからではありません。
現実を知ったということでもないです。
社会で働く必要があるからでもありません。
これはお金を稼ぐ必要があることとは本来関係がないものです。
それらは所詮、ヨナ・コンプレックスに陥ることを正当化するための使い勝手の良い言い訳に過ぎないのです。
実際、社会人としてまっとうに働いていて健全な社会性を保持しながらも自分を活かして活躍している人は確かに存在していますよね。
もっと言えば、マズローが自己実現していると認めた人々は皆一様に自分に内在しているありのままの人間性を解放することで、周囲の人々と良い関係性を築き、自他にとって本当に望ましい人生を生きることができています。
それは必ずしも社会的に成功することや有名になったりするものではありませんが、彼らは自分の人生において自分にとって最もフィットしている状態で毎日を謳歌することができているんです。
そして、それは彼らが特別な才能や環境があったからでも、特別に幸運に恵まれていたからでもありません。
マズローも語っていますが、自己実現とは人間であれば誰しもに共通して与えられている選択肢です。
そのような意味でも、歳を重ねるたびに選択肢が減り可能性が減っていくというのは幻想です。
勤労の義務が課せられていることとも、資本主義経済である社会に生きていることも、本質的には自分自身を生きられない事とは関係がありません。
むしろ、年齢や社会制度を言い訳に自分の可能性を狭めることで自分を守っているだけなのです。
厳しい言い方をしてしまえば、自己防衛の正当性を保つために、そういった事実につけこみ便乗しているだけだとも言えます。
そういった意味では、ヨナコンプレックスに陥っている人にとっては、いわゆる社会通念・固定観念・一般常識は自己防衛に走るための強力な味方となってくれます。
つまり、繰り返しになりますが、社会人であることも、世の中を知ることも、お金を稼ぐ必要があることも、歳をとることも、本質的には自分の可能性が減ることとは全く関係がないことなのです。
一方子どもは、自分の内在する絶大なるパワーを知っています。
どんな人にも必ず存在するオリジナルな本性の圧倒的な力強さを、子どもは理解しいます。
つまり、僕たちがヨナ・コンプレックスを乗り越えるためには、自分が幼い頃は純粋に信じられていた自分の可能性を思い出すだけでいいのです。
歳をとるにつれて抱え込んだ思い込みや自己イメージを手放すことで、ヨナ・コンプレックスにおける恐怖心からの支配に自由になれます。
そして、そのような過程を経てヨナ・コンプレックスを乗り越えた先に待っているのが自己実現そのものであり、それは子どものもつ純粋さよりも成熟した人間性です。
イメージ的には、酸いも甘いも知った後で訪れる、螺旋を一周回ったことで辿り着いた高い次元における内在する可能性の発揮という感じでしょうか。
これは、純粋無垢であり遮るものがないゆえに発揮される子供のものとは質的に異なった、より深い味わいのある力を帯びています。
だからこそ、そのような自己を実現している人びとは、社会的にもしっかりと世の中で調和して生きることができるのですね。
そして、これはむしろ子供にはできないことです。
年齢を重ねるなかで、間違いをおかしたり、脇道にそれたり、長らく停滞するような経験を経ることによって可能になる、成人ならではの特性です。
そういった意味で、平面上の円周をぐるりと一周回るだけでなく、高さという三次元を加えることによってらせん状に立体的に元の場所に戻ってきた事によるありのままの自分の発揮です。
そして、少し前にも触れましたがマズローは、そのための手段を僕たちにしっかりと明示してくれています。
そのヒントとなるものであり、特にヨナ・コンプレックスを乗り越える方法、あるいは、自分のヨナ・コンプレックスを解放する方法としてマズローが語ってくれていることに、『謙遜とプライドとのやさしい統合』というものがあります。
この『謙遜とプライドとのやさしい統合』というのは何かというと、それは自分のなかの「自尊心」と「謙遜する気持ち」を統合させることです。
そうすることで、ヨナ・コンプレックスに支配されなくなります。
もっとも、この『謙遜とプライドとのやさしい統合』については非常に奥が深い内容なのでこのコラムでその詳細に踏み入ることは出来ませんが、最後にそのキーポイントを語ってくれていると言えるマズローの次のような文章を引用して、このコラムを締めさせていただければと思います。
『責任と不安から逃れるひとつの簡単な方法は、事実について意識するのを避けることである。』
なお、『謙遜とプライドとのやさしい統合』も含めたここまでのヨナ・コンプレックスの話や、それらのゴールとも言える自己実現についての詳細を書籍としてまとめさせていただいたものもあるので、よろしければ下記のようなこういったコンテンツも自分が本当に望んでいる人生の実現にお役立ていただければと嬉しいです。