マズローの欲求ピラミッドに代わる新しい欲求階層として、「ケンリックの欲求ピラミッド」というものが話題になっていたのはご存じでしょうか?
これは、心理学者であるダグラス・ケンリック氏が書いた『野蛮な進化心理学』という書籍が2014年に日本で出版されてから一部の人々の間で広まった欲求ピラミッドです。
しかし、ケンリックのピラミッドに賛同する声もある一方で、個人的には少々納得がいかない部分もあるというのが正直なところ。
ということで、今回は「ケンリックの欲求ピラミッドとは何か?」という基本的な話も含め、マズローの欲求階層との違いや、ケンリックのピラミッドの問題点、更にはそれらを踏まえ、結局どっちが優れているの?欲求を満たす上で一番大事なことは?という事についても紐解いてみたいと思います。
もくじ
1.ケンリックの欲求ピラミッドとは?
ケンリックのピラミッドとは、冒頭でも触れたように『野蛮な進化心理学』の出版で注目されたピラミッドで、その特徴は「進化論」や「生物学」の観点からマズローの欲求階層論を建て直したというところです。
そのケンリックのピラミッドとマズローのピラミッドとの違いは、大きく整理すると下記の三つになります。
①ケンリックのピラミッドでは「自己実現の欲求」がなくなっている
②ケンリックのピラミッドでは、その最上位に位置するものが「子育て・育児」「配偶者の維持」「配偶者の獲得」になっている
③ケンリックのピラミッドでは、欲求が「積み上げ構造」ではなく「重ね合わせ構造」である
下記の二つのイメージ図は、一つ目が実際に論文のなかで使われているもので、二つ目が僕が日本語訳したものです。
上記のピラミッドでは先ほどの三つの相違点が反映されていることがお分かりいただけたと思いますが、ケンリックはマズローの欲求階層について一定の正しさを認めつつも、進化論の視点を加えて再構築する必要があるとしてこのようなピラミッドを提唱しました。
ちなみに、階層を重ね合わせにしているのは面白いポイントですね。
このことはイメージ図において階層が少しずれているデザインにすることによって表現されているようです。
そしてその意味とは、欲求同士の関係性は上位の欲求が表れると下位が無くなるわけではなく、それぞれは同時に存在するため周囲の環境・状況によって表面化するというものになります。
なお、マズローの欲求階層のイメージ図も念のため確認しておきましょう。
これは僕が作ったイメージ図の簡易版になりますが、このような形をしているマズローの欲求階層をベースにケンリックは自身のピラミッドを作りました。
また、これは少々マニアックな内容になりますが、先ほどの大枠での三つの相違点の異なった相違点として挙げられる別の二つのミニポイントもあり、それは以下になります。
④ケンリックのピラミッドにおいては、マズローの欲求階層における「尊重の欲求」に該当すると言える部分に「地位、立場」を意味する「status」がある
⑤マズローの欲求階層における「所属の欲求」では「所属性・帰属」という意味を持つ「belongingness」という単語が使われている一方で、ケンリックの方で下から三番目の階層に使われている単語は「所属」意外に「加入・合併・提携」というニュアンスが強い「affiliation」が使われている
これは巷ではほとんど語られていない両者の違いですが、個人的にはケンリックの理論を象徴するようなポイントだと思っています。
さて、ということで、マズローとの比較によりケンリックのピラミッドの概ねの内容を把握した後は、続いてはこれらの五つの相違点に注目しながら、ケンリックのピラミッドには問題点がないのかどうかをまず紐解いてみましょう。
2.ケンリックのピラミッドの問題点
①ケンリックは自己実現を誤解している
さて、僕は個人的に、ケンリックはマズローの語る自己実現について色々と誤解しているのではないかなと思っています。
そのことはケンリックが作ったイメージ図にも表れていると同時に、『野蛮な進化心理学』に中での彼の発言からも垣間見えます。
このことを説明するために、まずは先ほどのようなピラミッドになった背景にあるケンリックの考えの象徴的な発言として、『野蛮な進化心理学』で述べられている下記のようなものがピックアップしてみましょう。
『マズローは、人間の一生において繁殖が持つ中心的な重要性を語っていない。』
これは改めての確認になりますが、ケンリックがマズローの欲求階層を批判するポイントの一つとして挙げたことが、マズローが繁殖をはじめとした「生物学的」な観点を包括できていないということです。
そのため、ケンリックは「進化論」「生物学的」の要素を取り入れて「繁殖」というものの重要性を強調し作ったのが、先ほどのようなピラミッドでした。
したがって、ケンリックの作ったピラミッドには、「生存や安全や社会的つながりを求める欲求は、配偶者を獲得し繁殖するため手段である」という考えが反映されています。
言い換えれば、子作りや子育てをするために、それ以外の欲求は存在するということですね。
たしかに、生物にとっては種の保存は最重要項目と言えるので、あらゆる欲求がその目的のために存在しているというのは分からなくもないですが、これは少々偏った視点から強引に辿り着いた結論のような気もしないでしょうか。
またこの一方で、ケンリックはマズローが定義した「自己実現の欲求」について『自己実現の大半は承認のカテゴリーに収まり、その究極動機は「俗っぽい」目的に基づいている』とも語っています。
つまり、自己実現というものは、他者から承認されることで社会的な地位を上げ、配偶者を得て子孫を残すという世俗的なものであるというのがケンリックの自己実現への意味づけです。
また、ケンリックは、自己実現を極めた人たちのほとんどが社会的に高い地位を得ていることを例えに出し、彼らはそれにより繁殖成功の確率を高めているという解釈を述べています。
つまり、自己実現によって他人からの高い評価を得ることがグループ内での地位の獲得につながり、そのことがより多くの異性との関りを可能にしたり、自分の子供の子育てにおいても栄養価の高い食事の提供などといった様々なメリットがあるということです。
ここまでしまうと、ケンリックの意見はさすがに「生物学的」な側面に偏りすぎた見方であると思います。
なおかつ、マズローの語る自己実現とは社会的な地位の獲得をすることなどではなく、もっと懐が深く器の大きい広がりのある概念です。
実際、自己実現とは何かを一言で言うと「ありのままの自分の可能性を思う存分謳歌する」ことや「本来の自分自身で在り続ける」ということであり、これは種の保存や生存競争に勝つこととは全く違った次元の話です。
しかも、このような定義も自己実現がもっている多くの要素の一部を語っているにすぎず、実際はもっと色々なエッセンスが自己実現には含まれています。
このような意味において、ケンリックはそもそも論としてマズローの語る自己実現を理解していない、もしくは非常に部分的なポイントしか見ていないと言えると思います。
たしかに、広い意味では自己実現とは種の保存も内包したものと言えますし、自己実現を果たすことで良好な人間関係が築かれたり所属や尊重の欲求を満たすことで生活上の様々な豊かさを手にすることにも繋がり、それが結果的に自分の子孫の繫栄に結びつくこともあります。
しかし、そういった種の保存や子孫繁栄というものは、あくまでも自己実現の一つの側面に過ぎないんですよね。
もっと言えば、本質的な自己実現の意味においては、それらはただの結果であり、その結果の獲得自体が自己実現ではありません。
なおかつ、マズローの語る自己実現においては、ある人にとっては種の保存が自己実現になっていることもある一方で、種の保存が自分の自己実現と直結していない人も当然います。
そういった事も踏まえてケンリックの主張を捉えると、「自己実現=種の保存」という解釈はかなり狭い範囲内の自己実現の一部分だけを見て語られている感が否めません。
つまり、言ってしまえば、マズローが伝えている自己実現とケンリックが考えている自己実現は、その内容が全く違うのです。
もっとも、ケンリック自身がマズローの欲求階層を前提に自身のピラミッドを作っていることを考えれば、そもそもの大本に据えていたマズローの自己実現を勘違いし、自己実現の本質を見誤っている状態でピラミッドを作っている時点で、かなりおかしなことだと思います。
それならば、マズローの欲求階層などをベースにせずに、イチから自分で理論を構築すればいいはずですよね。
つまり、言うなれば、ケンリックは「木を見て森を見ず」というような限定的な視野で自己実現を語っているだけでなく、その「木」のことすらちゃんと理解していないのに「森」である欲求階層について語っているようなものだと思います。
②絵に描いた餅になっている
二つ目のケンリックのピラミッドの問題点が、研究手法が非常にずさんであるが故に根拠に乏しく、その内容が「絵に描いた餅」になっている可能性が高いということです。
というのも、ケンリックは身近な大学生への調査だけで先ほどのピラミッドの理論を作っていたからなんですよね。
このような意味で、ケンリックの理論はアカデミックな世界に限られたまったく現実味のない「絵に描いた餅」になってしまっているということです。
なお、この事ついては、『野蛮な進化心理学』の訳者代表である山形浩生さんも、あとがきの中で指摘してくれています。
『進化論的な説明はしばしば、見てきたようなお話に堕してしまう。たとえば人類が直立するようになったのは、森からサバンナに出てきて、サバンナだと立って遠くを見られたほうが有利だからだ、といった説明だ。だれもそんなのをみたことはない(ちなみにこの説は最近疑問視されている)。もっともらしいけれど、でも仮説の域を出ない。本書の多くの議論も、そうした突っ込みの余地はかなりある。』
このように、翻訳者という立場にある方がケンリックの問題点を指摘をしているのは、かなり説得力がありますね。
この問題点はいわゆる実験心理学ではありがちな問題なのですが、いずれにしろ実験室や大学にこもって研究されたケンリックの理論はどこまで一般化できるのかは疑問が残ります。
ちなみに、このような机上の空論になりがちな実際的でも現実的でもない結論に結びつく研究手法の盲目性などの問題点について、マズローは自身の著作の中でたびたび注意喚起をしています。
そして、マズロー自身はと言うと、もちろんこの事にしっかりと対処しており、研究のために実際に自然の奥地で生活をしている原住民に会いに行ったり、企業における従業員の心理的健康を解明するために長期間にわたり自分も企業の施設で過ごし調査をしてたりしています。
あるいは、心理学者としての仕事とは関係のないプライベートにおける出来事からも様々ヒントを見つけ出し、自分の身近な一般人や専門家ではない人々との関わり合いの中でも研究に活かせそうな発見をたくさん見つけ出し、それらを自身の研究に取り入れることで人の心の真理を追求していました。
つまり、マズローのピラミッドは、大学にこもり頭だけ使って研究するのでなく、大学を出てちゃんと足腰を使って実施した現地調査・フィールドワークを通した研究や、実際に世の中で生きているリアルな人々にも目を向けることによって確立されたものだということです。
この点においても、ケンリックのピラミッドはマズローとは違い、限定的かつ部分的な視点で述べられているものであるように思えます。
③マズローの進んだ道を逆戻りしている
三つ目のケンリックのピラミッドの問題点に、マズローの歩んでいた道の先に進むどころか、むしろその道を逆行するような内容になっているということです。
というのも、マズローは自身が心理学者として活躍する以前に主流となっていた「行動主義心理学」というジャンルがもっていた特徴を問題視していました。
その問題点とは、「動物的過ぎる」「人間らしさを無視しすぎている」という欠点です。
マズローは、それを補完する形で、もっと人の血の通った心理学として、欲求階層も含めた自身の心理学を編み出したんですよね。
そういった意味では、そのような背景で「人間味」という側面も踏まえて作り出された欲求階層論を、「生物学」という側面から捉えなおすというのは、先ほどのマズローの試みを逆戻りさせているだけであるとも言えるのではないでしょうか。
それは、結果的に行動主義心理学の問題点をまた回収しただけであり、あまりにも人の動物的側面に偏りすぎた「人間らしさ」を見失った頭でっかちなものとも言えるような気がします。
そもそも、そのようなマズロー心理学の背景を知らないからこそ、こういった逆戻りとなるような理論をケンリックは思い付いた気すらしてしまいます。
ちなみに、『野蛮な進化心理学』におけるその象徴のような文章が、下記になります。
『さらに、ピラミッドの上位にある自己実現の欲求を非生物学的な欲求として上位に位置付けているが、人間に特有の行為と思われるからといって非生物学的と決め付けることは間違っている』
この発言からも、ケンリックが「生物的」という観点に固執していて、なおかつマズローの語る自己実現を勘違いしていることが分かりますね。
言い換えれば、マズローが、自身が活躍する以前に主流となっていた心理学がもっていた問題点を改善し欲求階層を踏まえた理論を提唱したにも関わらず、ケンリックの試みはマズローが改善してくれた問題点を抱えた以前の心理学に戻っている逆行的な取り組みになっているとも言えるということです。
④所属・尊重欲求への解釈が部分的
ケンリックのピラミッドの問題点の四つ目が、「所属の欲求」と「尊重の欲求」に関する事柄です。
まず「尊重の欲求」についての話からさせてもらうと、冒頭の二つのミニポイントでも触れたようにケンリックは「尊重」と「地位」を紐づけて一緒の階層に置いていますが、言うまでもなく地位や立場に紐づいていない自尊心もありますよね。
もっと言えば、特定のポジションと自分を尊重することが結びついていない事の方が多いとすら言えるのではなないでしょうか。
自分の仕事上の立場や、プライベートにおける人間関係における地位が自分を尊重することと直接関係していないケースは山ほどあります。
自分の個性への愛着から自分を大事にできていたり、これまでの人生経験が自分を大切に思える根拠になっていたりすることだって往々にしてあることですよね。
なおかつ、これは少し感覚的かつ専門的な話になるのですが、ケンリックは「position」ではなく「status」という言葉を選んでいることからも分かるように、彼は単純な意味でのポジションではなく、「高い」というニュアンスが強い地位について話しています。
つまり、「自尊心を形成するもの=高い地位」というスタンスで話をしている傾向があるんですよね。
しかし、自分が所属しているチームやコミュニティにおいて自尊心を感じるためには、必ずしも高い地位は必要ありません。
僕たちの身近な人にも、一人や二人は自分の立場がその組織内で高い地位ではなくとも、しっかりとした健全な自尊心をもち自分を大切にできている人はいますよね。
組織においてリーダー格や役職といわれるようなステータスをもっていなくても自分を尊重出来ていたり、社会的には高いステータスとは言えない身分や役割にを担っていたとしても自己卑下や自己否定に陥っていない人はたくさんいます。
もちろん、進化論や生物学的な面で言えば、生存確率を上げるためにはコミュニティ内で高い地位を獲得することは有効であるものの、その側面だけを強調するいくつかの問題は既にお伝えした通りです。
なおかつ、「所属の欲求」に関して言えば、「所属の欲求」とは「自分と関わりある人々との関係性を望ましいものにしたい」という欲求であり、それは必ずしも高い地位を獲得したいという欲求ではありません。
「所属感」や「一体感」を感じる上で、その所属しているグループ内での地位が高くあることは絶対に必要な条件ではないですよね。
その組織内で権力も影響力もない立ち位置だけれども、メンバーとの繋がりを感じられることでこの欲求が健全に満たされている人もたくさんいます。
これらのような意味において、ケンリックの語る「所属」や「尊重」というものが、どうも生物学的すぎていて優生学や進化論に傾倒した人間味のない、競争心だけにフォーカスした動物的な冷たい印象を感じてしまうのです。
もっとも、ここまでお伝えした意見には賛否両論あると思います。
また、ケンリックが生物学的な色眼鏡でものごとを見ているのと同じく、マズローファンである僕自身にはマズロー推しの色眼鏡でケンリックの理論をみてしまう傾向もあるでしょう(笑)
しかし、決してマズローが特別好きなわけではないという方の中にも、この説明を聞く以前から、あるいは一番最初にケンリックのイメージ図を見たときに、僕と同じような印象や何かしらの違和感を感じ取った方はいらっしゃると思うんです。
そして、このようなことを念頭に、この後でお伝えする最後のポイントである子育てや繁殖に関する内容に触れることで、ケンリックのピラミッドに感じた違和感の原因が更にすっきりしてくると思います。
3.「子育て」と「種の保存」の本当の意味
さてさて、ここで改めての確認になりますが、ケンリックのピラミッドは進化論にもとづいているので、当然ながら「生物として進化し種として持続し続けること」が念頭にあるので冒頭のようなイメージ図になりました。
そしてこれもおさらいになりますが、ケンリックのピラミッドは自己実現を「社会的な成功」という一側面でしか見ていないことでその理論は成り立ちます。
しかし、自己実現の本来の正しい意味合いである「自分の可能性を十分に発揮する」という包括的な視点で捉えれば、ケンリックの理論は成立するのでしょうか。
少なくとも、このような自己実現の広義的な定義のもとケンリックの欲求が成り立つとすると、自分の可能性を最大限発揮するのも、種としての繁殖のため、あるいは個体としての地位の獲得と競争に勝ち自分の遺伝子を残すためだということになります。
それはそれで正しそうにも思えますが、実際どうなんでしょうか。
別に、自分の可能性を最大限発揮することが、種の保存や子孫繁栄と直接関係していない人もいますよね。
むしろ、社会的地位の獲得・生物として進化の促進・自分の遺伝子を後世に保存することなどが自己実現の目的になっている人は少ないと思います。
創造的な活動をすることや本来の自分自身であり続けるために、家庭をもち子育てをすることが必要な人もいるとは思いますが、生涯独身であるものの自分の可能性を発揮し続けて自己実現を生き切り天寿を全うした人も大勢いるでしょう。
もっとも、マズローの語る自己実現を生きた人は、生涯独身だとしても生涯孤独ではないのですが…。
それに、自分自身という個人レベルでは子どもを作らずにいたとしても、自分の仕事を通して他者の子育てをサポートしたり社会における教育制度をより良いものにしている人もいますよね。
保育園や幼稚園の先生、学校の教師、塾の講師、大学の教授などといった教育機関で働く人々はもちろん、政治的な立場から日本の教育を支えてくれている人などはその筆頭です。
あるいは、直接的に子育てや教育の現場に携わるような仕事でなくても、たとえばスーパーのレジ打ちの仕事を通して自分以外の家族の幸せを支えている人もいます。
ベビーカーや子供服やおもちゃの製造や販売に携わる企業に勤めている方もそうです。
もしくは、大工という仕事を通してお客さんの家づくりをすることがその家族の幸せを支えていることもありますし、農家として野菜を作ることがどこかの家族の幸せに繋がっていることだってあるでしょう。
音楽や絵画や小説の創造・創作を通して作品の聞き手や読み手の力になることが、その受け手の人々の家族への貢献にもなっていることもあります。
そして、言わずもがな、このような職業を通して社会に貢献している人たちが仮に独身だったとしても、彼らは自分の仕事を通して種の保存の力になっているのです。
言い換えれば、そのような人々は個体としての自分の遺伝子の保存はしていなくとも、もっと大きなスケールでみた社会としての種の保存においては、人間という生物の種の保存に寄与してくれているよねということです。
つまり、自分の自己実現的な活動が直接は個体としても種としてもその繁栄には結びついていなくとも、間接的なかたちで周りの人々の子育てや育児を支えてることになっている人は、それこそ無数に存在しています。
なおかつ、マズローにとっての自己実現とは、個人的な成功や幸せだけでなく、周囲の人々や社会とのつながりの中で実現するものです。
それは、自分のありのままを生きることで、利他と利己が統合され、「自分のため」と「あなたのため」が対立せずに調和している状態。
この世界観で生きていていれば、尚更自分は親という立場をとらなくても、自分が自己実現をすることが自ずと社会全体としての人類の繁栄になっているんです。
むしろ、競争心から他者を蹴落とし、他人の不幸や惨事の上に成り立つ自分の幸せは本当の意味での自己実現ではありません。
つまり、ケンリックの欲求ピラミッドは個体としての成功だけにフォーカスしており、一方でマズローの欲求階層はもっと大きなスケールで見た包括的かつ統合的なものなのです。
そして、この人類全体のスケール感をもてていること、自分だけの個人的な幸せではなく周囲の人々も含めた全体としての幸せを生み出せることが、マズローの語る自己実現の特徴でもあります。
そして実際、ケンリックのピラミッドで言う「子育て」「配偶者の維持」「配偶者の獲得」をしていないけれど、自分の自己実現を通して他者の「子育て」「配偶者の維持」「配偶者の獲得」をサポートしている人は現実世界にはたくさん存在してくれています。
更に言えば、あらゆる自己実現は、自分以外の人々の「子育て」「配偶者の維持」「配偶者の獲得」をサポートしていると言ってもいいくらいです。
彼らがいるからこそ、世界は成り立ってくれているとさえ言えるのではないでしょうか。
ここはあえてトゲのある言い方をしますが、実験室にこもり自分の観念に固執したケンリックには、彼らの存在や大きなスケール感での人々の繋がりが見えていなかったのでしょう。
ちなみに最後に余談を言うと、マズローの欲求階層においては下から二番目の欲求であるのは「安全の欲求(safety needs)」ですが、ケンリックのピラミッドでは「自己防衛(self-protection)」という言葉が使われており、僕の印象ではこの言葉のチョイスにも、ケンリックのどこか非常に個人的で狭い世界観が垣間見える気がしてしまいます。
4.マズローorケンリックの結論
さて、ここで最後の結論を出しましょう。
「マズローとケンリックのピラミッド、正しいのはどっち?」という問いかけへの、このコラムでの答えですね。
もっとも、その内容は拍子抜けしてしまうかもしれませんが、それは結論から言えば「答えはありません」というものになります。
というか、「どっちが正しいか?」「どちらがより優れているか?」という対立軸における比較は、マズローが大事にしていた「統合」や「調和」とは対照的な世界観の話です。
そういった意味でも、「どっちが正しいか」ということを論ずるのは意味がないだけでなく、もし仮にマズローがまだ生きていたら、きっとマズローはケンリックの主張も包括した形で更に自身の心理学を洗練させるのだと思います。
なおかつ、ここまでの内容もあくまで僕の個人的な解釈であり、また、既に触れたように僕自身には「マズロー推しバイアス」がかかっているので、このコラムでの話はケンリックのピラミッドをその点において偏った見方で捉えた上での話になっているのも事実です。
でも、自分の好きなミュージシャンや俳優やスポーツ選手を否定されたら、冷静さを失い「いやいやチョット待ってよ!」と言いたくなってしまう気持ちはご理解いただけますよね?(笑)
いずれにしろ、これらの事も踏まえて考えると、どっちが正しいかということを決めることはあまり意味がないことだと思います。
もっとも、ケンリックの主張が進化論・生物学的過ぎるというのは事実としては言えることだと思います。
それは、『野蛮な進化心理学』における、「自己実現の欲求」への次のような批判的な発言からもより明かになります。
『もし人類の祖先が、自身の生物学的な欲求を”超えた”活動ばかりしてたら、私たちはいまここにいなかっただろう。』
これは、良くも悪くもすごい進化論的な考え方ですよね。
この事に関して少し余談を話させていただくと、もし人間が一つの種として時代的にマズローの欲求階層をみんなで上がってきているのだとするとどうでしょう。
つまり、人類が生まれたときから今日までの長い時間をかけて歩んできた歴史が、「生理的欲求」からスタートし「安全の欲求」など経て徐々に徐々に「自己実現の欲求」へと向かう道程そのものだとしたら、先ほどのケンリックの発言はマズローによって包み込まれます。
要するに、「生理的欲求」を最重要視していた時代から、長い長い時の流れを経たことで、現代に生きる僕たちはようやく「自己実現の欲求」に重きを置く人生を生きられるようになったとしたら、ケンリックの先ほどの主張は意味をもてなくなります。
実際、昨今はAIの発達により、人間らしさを要求されない仕事、個性を発揮しなくていい仕事、代替の利く誰がやっても同じような仕事はみんなロボットに代わっていき、その流れは今後加速していくことも明らかですよね。
なおかつ、一部の優秀な専門家や知識人の方々は、現代はあまりにも人口が多くなりすぎているため人類はこれから種全体として人口を減らす方向に進むことになるという見解をお持ちの方もいます。
ちなみに、その一つの象徴的な昨今の傾向がジェンダーレス・同性愛などの流れで、これらは子作りをしない形でのコミュニティの形成です。
このような時代の流れも踏まえると、人類の生誕から今日までの気の遠くなるような年月をかけて徐々に人類全体として生理的欲求重視の生活から自己実現の欲求重視の生活に移行してきているのだとしたら、なおさらマズロー欲求階層は先鋭的な鋭い視点で語られたもののように思えてこないでしょうか。
ちなみに、ケンリックは下記のような意見も述べています。
『進化生物学の考え方からすれば、「自己実現欲求」が人間の欲求の最上位に来ることは必然ではないし、正しくもない。「自己実現欲求」をピラミッドから取り除くことで、私たちはその事実に気づきやすくなるはずだ。』
たしかに進化生物学から見ればそうなのかもしれませんが、それはあくまで「もし仮に進化生物学からみたら」という数あるモノの見方の内の一つの話です。
これまでも何度もお伝えしてきたように、自己実現の話を別の角度から見ればもっと別の結論が出ますし、本来の広い意味合いで自己実現を捉えれば、それを進化生物学という一つのジャンルに縮め込ませて考えることに意味などありません。
つまり、ケンリックの主張は人の数だけ存在する解釈の中の一つに過ぎず、自己実現を語る上では不十分極まりない狭い世界観での話になっています。
たとえば、「仕事とはなにか?」ということへの意味づけが、「ご飯を食べるため」であることだってありますし、「自分の成長のため」であることだってありますよね。
前者の価値観によって仕事をしている人にとってはもしかしたら仕事は「したいくないこと」かもしれませんし、後者の人における仕事は「やりがいのあること」かもしれません。
おそらく、「仕事はお金を稼ぐため(家族を食べさせるため)にやらなければならないもの」という価値観の人にとってはケンリックの話はきっとフィットするでしょう。
「仕事で自己実現するなんて綺麗ごとだ!」「人間や労働というものを肯定的に捉えすぎている!」という考えを持っている人にとっても、ケンリックのピラミッドはマズローよりも真実性が高く感じられると思います。
ちなみに、マズローは僕たち人間が本来生まれながらにして持っていたはずの「自己実現の欲求」が大人になる過程で消えてしまうことが実際にあるということもちゃんと述べてくれていました。
このような「自己実現の欲求」が消えたタイプや、そこまで行かなくとも自己実現と人生が自分でも気付かぬうちに意識できない程に乖離している人にとっては、ケンリックの理論は受け容れやすいと思います。
その一方で、「仕事は自己表現や自己成長のためのもの」という価値観を持っている人や、「自己実現の欲求」の存在を自分のなかに少しでも感じるような方には、ケンリックのピラミッドはあまりしっくりこないのではないでしょうか。
それに、「仕事は私にとってご飯を食べるためのものでもあるし、成長するためのものである」という人だってもちろんいますよね。
その場合、ケンリックのピラミッドはある側面では正しいものに感じるし、視点を変えれば違和感を感じるものになると思います。
つまり、このような意味でも、マズローとケンリックのどっちが正しいの?という論争は、意味がないのです。
もっとも、マズロー批判という入り口から欲求階層を論じた時点で、ケンリックにはこの視点はなかったのかもしれませんが。
なおかつ、正直な感想を最後に言ってしまうとマズロー推しの僕としては、
「というかそもそも論だけと、マズローの欲求階層を進化論的な視点で捉えなおすことって、やる価値のあることなの?」
「そんな事をして何の意味があるの?」
というのが本音です(笑)
むしろ、ケンリックは自分の意見を押し通すために、あるいは自分の意見の正しさの根拠を仕立て上げるためにマズローの欲求階層を利用しただけなんじゃないの?とすら思います。
あるいは、世間から注目されたり話題性を得るために売名行為としてマズローを踏み台にしたか、発表する論文や出版する書籍のネタ作りのためにマズローのふんどしで相撲をとったに過ぎないという、うがった見方さえしてしまいます(笑)
もっと言えば、マズローが語っていた、ものごとを自分の勝手解釈や自己都合などを指しはまずに中立的かつ冷静に見ることによって可能になる、対象のありのままの正確な姿を見ることができる「無邪気な目」を通してではなく、誤解や偏見・思い込み・決めつけなどによって対象の正しい姿を捉えることができなくなる「歪んだ目」によって、ケンリックがマズローの理論を捉えているように思えてなりません。
というか、そもそもケンリックはマズローが書いた書籍や論文を全部読んでないフシすらあります。
むしろ、そう考えるとケンリックがこれまで見てきたような発言をしていることにも個人的に納得がいきます。
まあ、こういったことを言うと多くの方に怒られるのですが、それでもマズロー熱が止まらなくなってついつい言ってしまいました(笑)
そして、繰り返しになりますが、マズローファンである僕には、このようにどれだけ気を付けてもマズロー寄りの見方でしかケンリックのピラミッドを見れなくなっているという弱点もありますし、なおかつ僕はケンリックの書いた英語の原文の全ては読めていないので、もしかしたらここまでの内容にもそのことによって気付けていない誤解や勘違いがあるかもしれません。
つまり、これらの事も踏まえた最終的な結論としては、「まあ、今回のコラム内容も参考しながら、各々がその時々の自分の価値観にフィットする方を選んで、それを自分の人生に活かせればいいよね」というものになります。
それに何よりも、これらの知識を吸収して自分事に落とし込み日々の生活において活かせなければ何も意味がありません。
言い換えれば、「マズローが正しい」あるいは「ケンリックの方が優れている」という結論を出しても、結果的にそれが自分の人生をより良いものにすることに紐づかなければ、そんなこと言っても意味がないと思います。
それに、口ではそんなことを言っていても、その人の人生が望ましいものとは言えなければ、説得力はゼロですよね(笑)
そういった意味では、このコラムの内容が、読み手の方の自分自身の価値観の成熟に役立つものになっていれば幸いです。
ではでは、最後までお読みくださり、ありがとうございました。