ミスターチルドレンの「花 -Mémento-Mori-」という楽曲の歌詞には、マズローの語る自己実現における開花することの大切さが感じられるエッセンスがたくさん眠っています。
今回は、本当の意味での自己実現とはどういうことなのかを、この曲の歌詞と共に紐解いてみたいと思います。
【歌詞引用】
Mr.Children「花 -Mémento-Mori-」
作詞:桜井和寿
作曲:桜井和寿
「花 -Mémento-Mori-」は、まずこのような歌詞ではじまりますね。
ため息色した 通い慣れた道
人混みの中へ 吸い込まれてく
消えてった小さな夢をなんとなくね 数えて
普段の日常風景は、ため息とともに過ごすことで、モノクロ色になってしまいます。
自分という存在は、似たような人で溢れかえる人混みの中のその他大勢の一人として、そのさびれた景色の一部と化しています。
今はもう忘れてしまっているものがほとんどで思い出すことさえ出来なくなっていますが、僕たちはかつてはたくさんの夢や希望を抱えて生きていました。
「あれもしてみたい!これもしてみたい!」
「こんなことしたら、どうなるんだろう?」
「世界は行ってみたい場所だらけだし、見たことない景色をもっともっと見てみたい」
誰もがみな、キラキラした感性と共に、このような好奇心や探究心でいっぱいでした。
同年代の友人達が 家族を築いてく
人生観は様々 そう誰もが知ってる
悲しみをまた優しさに変えながら 生きてく
しかし、多くの場合、僕たちは大人になるにつれて、自分の可能性をどんどん閉じていってしまいます。
社会に出るようになれば、「常識」や「他者の目」といったものの力が更に強くなり、それに抗うことすら自然としなくなるようになってしまうんですね。
他人と自分を比較して自己卑下に陥るくらいなら、最初から比べないほうが良いとアタマでは分かっていても、気付けば無い物ねだりをしてしまい、自分のダメさ加減にばかり目が向いてしまうことも少なくありません。
「価値観なんて人それぞれなんだから」という言葉を口では言いつつも、実際は自分の価値観を社会の価値観で染めてしまう方を選びます。
自分の価値観に従って生きることが幸せだということを本当は知っているのに、それにも関わらずそれを磨き貫く勇気はなかなか持てません。
そのようにして選んだ人生にも、確かに楽しみや彩りはあります。
「やりがい」や「生きがい」だってなくはないかもしれません。
あるいは、その過程で知った悲しみや苦しみというものを、自分を成熟する糧にすることもできるでしょう。
そうして他人へのやさしさを持てるようになることは、疑いなく素晴らしいことですよね。
しかし、それが本来の自分自身の人生を生きることになのかは、まったく別の話です。
自分色を極める人生、あるいは、自分らしさを完全に活かす人生というのは、やはり自分の価値観で生きることでしか成し得ないものです。
自分に眠る可能性をしっかりと開花させ、自分らしさをめいっぱい謳歌したいという気持ちのことを、マズローは「自己実現の欲求」と名付けました。
もちろん、自己実現を生きる上ではたくさんの苦悩や葛藤がありますが、それでもこの欲求は確実に僕たち一人一人に内在していて、隠しきれるものでもありません。
この素直な欲求に従うことで初めて、自分軸の価値観に寄り添ったイキイキとした心持ちで生きることができます。
負けないように 枯れないように
笑って咲く花になろう
ふと自分に 迷うときは
風を集めて空に放つよ今
一輪の花として自分を開花させたいという素直な気持ちを表現することで、はじめて心の底からの澄んだ笑顔と、お腹の底からの本気の笑い声は輝き出します。
それは、他の誰にもまねできないこの世でたった一つの笑顔であり笑い声であり、輝きです。
もちろん、自己実現を生きることは良いことばかりではなく、むしろ自己実現を生きる人生特有の大変さや迷路がたくさんあります。
しかし、そんなときは、風に助けを求めることで、あるいは風をお手本にすることで見えてくる景色があります。
風のような大らかさや優しさ、あるいは強さやしたたかさを自分のなかにもつことで、自己実現の道のりへの歩みはどんどん揺るぎないものになってくれます。
そしてそれは、しなやかで、自由で、開放的な在り方をもたらしてもくれます。
執着心や固定観念という自分を束縛し萎縮させるものを手放した人たちは、大きな全体の流れにそって、自分の想像を遥かに超えるような豊かな経験をしていきます。
全体性に抵抗することもなければそこから逃避することもないので、自分の意志や作為を超えた次元での縁が巡ってくるのです。
恋愛観や感情論で 愛は語れない
この想いが消えぬように そっと祈るだけ
甘えぬように 寄り添うように 孤独を分け合うように
マズローの語る愛というのは、本来は言葉で伝えられる類のものではありませんでした。
それは、分離や対立を超えた統合的な愛なので、言葉という相対性を基盤としたものでは語ることができないのですね。
理屈や理論を越えた存在は、アタマで考えて理解することではなく、ココロで感じることだからです。
自己実現を生きている人々の愛というのは、まさにこのような意味における愛でした。
彼らは、「願う」という意味での祈りではなく、「感謝する」という意味での祈りや、祈りの語源としての「意宣り」、すなわち「自分の決意を宣言する」「コミットメントする」ということを通して、世界と調和した愛を生きています。
だからこそ、真の意味で自己実現を果たしている人というのは、孤独を恐れない本質的な意味での自立を生きられる人でもありました。
依存することと寄り添うことは似ているようで全然違います。
一方的な甘えは自律的な人のすることではありません。
孤独を内包し、ひとりぼっちになる恐怖を受け容れることで、僕たちははじめて自分軸が確立され、本当の意味で自分と他者を尊重できるようになるのです。
等身大の自分だって
きっと愛せるから
最大限の夢描くよ
たとえ無謀だと他人が笑ってもいいや
僕たちは、健全な自尊心を育むことによって、ありのままの自分を受け容れることができます。
理想像にたどり着いた自分ではなく、今現在の等身大のリアルな自分を受け容れることで、自分を愛することができ、結果的にその愛は無限に広がっていくことになります。
そのような在り方でいることで、自分の可能性は最大限に広がっていき、それはもはや他人からの非難や冷笑すら寄せ付けなくなります。
恐怖心から自分の可能性を閉じた人々などは付け入るスキがない程に洗練されます。
負けないように 枯れないように
笑って咲く花になろう
ふと自分に 迷うときは
風を集めて空に放つよ
ラララララ ラララララ
心の中に永遠なる花を咲かそう
咲かそう
自分の開花した姿は、傍から見たら花開いているようには見えないかもしれません。
むしろ、自分を萎縮させた人々の歪んだ目には、真逆に状態のように映ることもあるでしょう。
しかし、言うまでもなく、それはどうでもいいことです。
自分の内側に咲く花の存在を自分自身がちゃんと感じられているかが大事なことです。
ありのままの自分を受け容れ、勇気をもってそれを表現することで心の中に咲いた花は、自分が枯らそうと思わなければ永遠に輝き続けるものです。
あるいは、そうしてもたらされた輝きを周りの人々と共有することで、その花は更に美しくなり、枯れることはなくなります。
つまり、僕たちは、自分の人生としっかりと向き合い、風のような自由な心持ちと、本質的な需要によって育まれる永遠なる花を自分の内に咲かせることで、あるがままの自分らしい人生を謳歌することができるのではないでしょうか。
ちなみに、この楽曲の副題である「Mémento-Mori」は、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「死を忘るなかれ」という意味の警句だそうです。
あるいは、そこから転じて、古代ローマでは「今を楽しみなさい」という意味で使われていたという説もあります。
この曲を制作した当時の桜井さんは前向きな歌詞を書けない状況だったそうですが、そのような自分の心境を代弁してくれたのが、「Mémento-Mori」という言葉だったのかもしれませんね。
いずれにしろ、自分という命がいつか枯れ果てるからこそ、僕たちは自分の花を開花させ、「いま」というこの瞬間を謳歌することができるのではないでしょうか。
Mr.Childrenの「花 -Mémento-Mori-」は、そんなことを、重みがありつつも切なく優しいメロディとともに感じさせてくれる、とても素敵な曲ですね。
※このコラムの内容は、あくまでもマズロー心理学という眼鏡をかけた目で見た個人的な解釈であり、この曲の作り手・歌い手・演者の方々が込めてくれたメッセージの感じ方の一つです。