YOASOBI(ヨアソビ)の「群青」という楽曲は、マズロー心理学における「自己実現」に秘められている、僕たちが自分らしい人生を生きる上で大切にしていきたい多くのエッセンスを感じることができる素敵な曲だなと思います。
今回は、その中でも特に注目したい「自分を色を極める」ということについて、群青の歌詞をマズロー心理学のメガネを通して見ることで紐解いていきましょう。
【歌詞引用】
YOASOBI「群青」
作詞:Ayase
作曲:Ayase
群青の歌詞の冒頭は、日常の退屈な毎日のイメージからスタートします。
普段の生活は、あくびをするようなある種の平和な日々ですが、心の奥底では言葉にできない何かモヤモヤしたような感覚を抱いています。
とはいえ、そのモヤついた感覚への意味づけもモヤついているので、その事としっかりと向き合う事もなければ、意図的・意識的にヒザを付き合わせることもしません。
嗚呼、いつもの様に
過ぎる日々にあくびが出る
さんざめく夜、越え、今日も
渋谷の街に朝が降る
どこか虚しいような
そんな気持ち
つまらないな
でもそれでいい
そんなもんさ
これでいい
この世界観は、マズローの語った「疑似自己」の世界観と通じるものがありますね。
自分を見失い自分に嘘をつくことで生きる世界は、味気ないモノクロ的なものですが、安心かつ安定もしている場所なので、たとえ窮屈で不自由で居心地が悪くてもそこから飛び出そうとは思えません。
自己暗示のようにして自分で自分を必死に納得させようしているのですね。
マズローが語った「欲求階層」的に言えば、自分に眠る「自己実現の欲求」を包み隠して生きている状態です。
「もっと自分らしく生きたい!」「自分に眠る色々な可能性を発揮させたい!」という本音を押し殺し、心の隅に追いやり、頑丈な箱の中にしまいがっちりとフタをしてしまいます。
知らず知らず隠してた
本当の声を響かせてよ、ほら
見ないフリしていても
確かにそこにある
しかし、その欲求はどれだけ粗末に扱われしまっていても、消えることはありません。
ことあるごとに「ガタガタ」と音を立てて、「ここにいるよ!」と教えようとしてくれています。
本人はアタマで忘れたフリをしていても、ココロはとても正直者です。
この事は、マズローが「自己実現へと至る8つの方法」の一つとして挙げていた、「自分の内なる声に耳を傾ける」の内容とも繋がっている話ですね。
そして、自分のなかにあるそのようなピュアな欲求というのは、唯一無二のものです。
それと同時に、僕たちは誰しも、この世界に自分しかもっていないオリジナルな感性・感受性・創造性を内に秘めて生まれてきました。
本来は誰の色にも染まることのない、自分だけのこの世に二つとないカラーを活かすことが自己実現であり、「ありのままの自分を謳歌したい!」という欲求の声に従うことで、現実の世界も自分色に描き換えられていきます。
感じたままに描く
自分で選んだその色で
眠い空気纏う朝に
訪れた青い世界
しかし、それは自分のなかの恐怖心と向き合う事でもあります。
なおかつそれは、なかなかにして精神的にハードなこと。
だからこそ僕たちは、そのことを知っているが故に自分の心の声を無視することを選んでしまうのですね。
好きなものを表には出さずに、あるいは嫌いなものを好きだとでっち上げることで、その恐怖心から逃れようとします。
そうしてしまえばラクですし問題に巻き込まれることもないのですが、その先に待っているのはボンヤリしたココロが映し出す、くすんだ色の世界です。
一方で、自分の内なる声と恐怖心の両者としっかりと向き合うことができた人々が生きているのは、鮮度の高いココロが映し出す、色鮮やかな澄みわたった世界です。
好きなものを好きだと言う
怖くて仕方ないけど
本当の自分
出会えた気がしたんだ
この二つの世界の違いは実は誰しもが知っているのですが、実際に自分色の世界を生きることを選ぶ人は少数です。
そして、仮に自分の色を研ぎ澄ます人生を選んだとしても、それはただ楽しいだけではありません。
むしろ、その世界に生きるからこそ巡り合う苦悩や葛藤があります。
嗚呼、手を伸ばせば伸ばすほどに
遠くへゆく
思うようにいかない、今日も
また慌ただしくもがいてる
悔しい気持ちも
ただ情けなくて
涙が出る
踏み込むほど
苦しくなる
痛くもなる
しかし、自分の色を極める人生を生きると決めた人は、このような苦悩や葛藤を自分の成熟の糧にできる人々でもあります。
苦しみや不安や不甲斐なさに打ちのめされるのでもなく、あるいはそれを無視するのでもなく、更に言えばそれらを排除するのでもなく、それらを自分のなかに包み込み調和させることで、自分を深めてくれる大切なエッセンスとして本質的な意味でそれらを受け容れるのです。
傍から見ればその光景は見てくれの良いものではないかもしれません。
しかし、彼らはそういった苦悩や葛藤というものでさえ、自分の意思と勇気で心に立てた旗を支える土台として、自分のなかに統合できるのです。
感じたままに進む
自分で選んだこの道を
重いまぶた擦る夜に
しがみついた青い誓い
好きなことを続けること
それは「楽しい」だけじゃない
本当にできる?
不安になるけど
僕たちはきっと、自分の好きなものを好きだと言うと、それを貫きたくなるから怖いのですね。
もしくは、好きなものを貫く過程でそれを馬鹿にされたり拒絶されることが怖いという側面もあるかもしれません。
あるいは、好きなことに挑戦したことで自分の限界を知ってしまうのではないかという恐れもあるでしょう。
しかも、世の中には、楽しむことを揶揄したり、楽しんでいる人を小馬鹿にしたりする人の方が多いので、それが尚更恐怖心に拍車をかけます。
あるいは、心の絵の具が固まってしまった大人たちは、楽しむことと怠けることの区別ができておらず、楽しむことの本当の価値を見てとることのできない世界観から、彼らはそのネガティブな面ばかりを強調し押し付けてきます。
「ちゃんと働け!」
「現実を見ろ!」
「夢見てんじゃねぇ!」
このような人たちは、自己実現している人たちが遊ぶように働く姿を見て、「不真面目だ!」「甘えだ!」「世間知らずだ!」「自己中心的だ!」「不謹慎だ!」といったような、歪んだ認知で捉えた言葉を吐くことしかできません。
事実、楽しいことは怠慢ではありません。
それは現実逃避でもありません。
むしろ、楽しいことと向き合うことは、勇敢なことであり、自分にとって本当にリアルな人生を生きる唯一の方法です。
そして、これは「群青」の楽曲制作のインスパイア元でもある「ブルーピリオド」という漫画の中でも語られているように、楽しみながら創り出されたものというのは、受け手の心を揺さぶるものです。
そこに理屈は必要ありませんし、実際理屈なんて存在していないのでしょう。
子どもが無邪気に遊んでいるのって、見ているこっちまで嬉しくなりますよね。
子どもが夢中で作った工作や一生懸命描いた絵は、大人には創り出せない味わいがあります。
そのようなただ純粋に楽しんでいる姿やピュアな楽しみから生み出された創作物は、受け手の心にスッと届きます。
子供時代は恐怖心もなく出来ていたそのことを、恐怖心を手にした大人になってからも続ける勇気をもてている人は社会ではとても貴重な存在だと思います。
大抵の人は、さまざまな言い訳をこしらえて、正当に見える理由をこじつけて、恐怖心を内包しながら楽しむ人生から逃げ回る選択をします。
「自分にはなんの取り柄もないし」
「俺なんてどこにでもいるフツーの凡人だからさ」
「自分らしさを活かして生きていく自信なんてないよ」
このような言葉を、まるで呪いのように自分にかけてしまうのですね。
しかし、恐怖心と対峙しながら楽しむことを通して自分の色を深めてきた人々は、自信があるからそれができたのではありません。
何枚でも
ほら何枚でも
自信がないから描いてきたんだよ
何回でも
ほら何回でも
積み上げてきたことが武器になる
周りを見たって
誰と比べたって
僕にしかできないことはなんだ
今でも自信なんかない
それでも
「自信があるから出来た」のでもなければ、「出来たから自信をもてた」のでもありません。
彼らは、自信なんてなくても「やること」を選ぶことが可能であることを知っているだけです。
多くの人は、最初から「できるかできないか?」というモノサシで測ることで「やらない」を選択しますが、自分の内なる声に従い生きている人たちは、まず最初に「やるかやらないか?」という二択で考え、その上で「やる」という選択肢を選ぶことで、それが「できる」ことになるのです。
要するに、使うモノサシの順番が真逆なのですね。
むしろ、「やらない」という選択をするために「できるかできないか?」という基準で行動しようとするのが、ほとんどの大人だと言った方が正確なのかもしれません。
いずれにしろ、一つ目のモノサシとして「やるかやらないか?」を使い、「やる」を選んだ人は、仮にそれが結果的に「できた」にならなくても、そこまでの道のりの中で新しい可能性や今まで見たことのない自分を発見します。
感じたことない気持ち
知らずにいた想い
あの日踏み出して
初めて感じたこの痛みも全部
好きなものと向き合うことで
触れたまだ小さな光
大丈夫、行こう、あとは楽しむだけだ
彼らにとっての「大丈夫」とは、自信があるからそう思えるということではなく、恐怖心と共に「やる」という選択肢をしたこと自体が価値があると知っているが故の「大丈夫」です。
あるいは、人によっては、失敗しても後悔しても大丈夫であるという意味かもしれません。
または、もっと次元の高い包括的な意味合いにおける「どうにかなる」という意味での大丈夫である場合もあると思います。
いずれにしろ、そのようにして自分の血肉となった「大丈夫」が更なる高みへと自分を連れて行ってくれます。
全てを賭けて描く
自分にしか出せない色で
朝も夜も走り続け
見つけ出した青い光
好きなものと向き合うこと
今だって怖いことだけど
もう今はあの日の透明な僕じゃない
ありのままの
かけがえの無い僕だ
自分を偽り欺く人は、自分の色を薄めます。
そのことが板につくと、いずれは無色透明の中身のカラッポな空虚な人間性になってします。
あるいは、他者の色を取り込むことで、濁った色になる人もいるでしょう。
いずれにしろ、これこそがマズローの言うところの「疑似自己」であり、純粋無垢な自分を謳歌する自己実現とは真逆の人生です。
一方で、自分の原色として存在しているその色が、例え周りに受け入れらなくても、もっと言えばその色を非難されても、ありのままの自分色を受け容れ表現する人は、文字通り色彩豊かな人生を満喫します。
「群青」のイメージの源泉になっているブルボンのアルフォートのキャッチコピーは、「青を見方に」というものですが、この「青を見方に」の青とは、すなわち「自分の色」のことでしょう。
つまり、自分のオリジナルな色に自分の見方になってもらうということです。
これは、ありのままの自分を受け容れたからこそ可能になる自分との関係性だと思います。
ちなみに、このことはマズローが語った自己実現の特徴の一つが「受容」であることや、自己実現に至る方法の一つとして「自分を極め続ける」ということがキモになる話とも通じる内容ですね。
また、曲のタイトルになっている群青色(ぐんじょういろ)とは、もとは「岩絵の具」において鉱物の瑠璃(ラピスラズリ)から作られる非常に高価な色合いのことでした。
そのため、当時の人々にとっては、群青色は宝石に匹敵するほど貴重な色だったのです。
そして、言うまでもなく、僕たちそれぞれ内に秘めている自分の色は、自分にとって世界一大切な色です。
その色をしっかりと磨くことで、自分自身が輝き出します。
それは、さながら宝石のような宝物。
言うなれば、この世にたった一つ存在する宝物を、僕たちは自分の中に秘めているのですね。
世の中を上手に渡り歩くことと、自分自身を生きることは違います。
社会に上手く染まって生きることと、ありのままの自分と社会を調和させて生きることは違います。
世間で評価されるために生きることと、本来の自分を自分軸で物事に意味づけをして生きることは違います。
自分以外の人々から認められることに重きを置く人生と、自分を自分で受け容れることで実現する人生は違います。
これまでは自分を偽り原色を薄めたり汚してしまったとしても、自分のなかに眠っていた本当の声はまだ消えてはいないはずです。
僕たちは、自分の内なる声に耳を澄ませることで、自分のもともとの色を澄んだ状態に戻していくことができます。
いままで無視したり虐待したりすることでないがしろに扱っていた内なる声を受け容れることが、偽りの人生から本当の人生へと舵を切り替える鍵なんですね。
知らず知らず隠してた
本当の声を響かせてよ、ほら
見ないフリしていても
確かにそこに今もそこにあるよ
知らず知らず隠してた
本当の声を響かせてよ、さあ
見ないフリしていても
確かにそこに君の中に
YOASOBIの「群青」は、自分色を貫く大切さを思い出させてくれるだけでなく、自分の色を洗練させる道のりを歩む中で勇気を与えてくれる、本当に素敵な楽曲ですね。
※このコラムの内容は、あくまでもマズロー心理学という眼鏡をかけた目で見た個人的な解釈であり、この曲の作り手・歌い手・演者の方々が込めてくれたメッセージの感じ方の一つです。