超越論

至高経験と至高「体験」は何がどう違うのかを考えてみる

フロー体験
自己紹介

 

一般的にはあまり厳密に使い分けられることの少ない「至高経験」と「至高体験」という二つの言葉ですが、これらはどう違うのでしょうか?

今回は、マズロー心理学的な観点でこの両者の違いを整理してみました。

また、まれに至高経験の説明としてフロー体験が用いられることがありますが、厳密には「至高経験=フロー体験」という説明は間違いであり、至高経験はフロー体験とは違うものなのですが、この辺りの事も記事の後半で紐解いていきたいと思います。

なお、そもそも論しての「至高体験とは何なのか?」については下記リンクの記事にまとめているので、まだお読みでない場合は下記の記事を読んでからの方がこの後の内容がより深く理解できると思います。

至高体験
至高体験とは?その意味とマズローが語る実例・方法・条件・落とし穴など マズロー心理学における最重要キーワードの一つでもある「至高体験」とは、いったいどのようなものなのでしょうか? また...

 

1.至高経験と至高体験の違い

 

それではまず、「至高経験」と「至高体験」の違いを整理していきましょう。

ここでは最初に結論から言うと、実は両者には明確な違いはなく、マズロー自身は「至高経験」と「至高体験」を使い分けておらず、これらは単なる翻訳の違いになります。

実際、英語の原著では、これらの単語は「peak experience」または「peak-experience」、もしくは「experience」を複数形にして「experiences」にしていたりしますが、基本的には文脈上の違いはあれどそれの指し示す意味は変わっていないと思われます。

この事も踏まえると、単純に「experience」を「経験」と訳すか「体験」と訳すかの翻訳者の意図や感覚の違いであり、「至高経験」と「至高体験」の言葉自体には違いがないと言えそうです。

しかし、その上で「至高経験」と「至高体験」のどちらがより正確な翻訳かと言うと、この後で詳しく紐解いていく様々な理由から個人的には「至高経験」という翻訳の方がより適していると考えています

 

ちなみに、そもそも論になりますが、「経験」と「体験」という言葉の違いはご存じでしょうか?

一般的には、「経験」とは、行動をした上で知識や技能を身に付けることであり、一方で「体験」とは、行動することそれ自体を指しています。

つまり、言い換えれば、「体験」を通じて結果的に何かしらの学びを得た場合に、それは「経験」と呼べるものになるということですね

普段の会話でも、「とても良い体験になりました」とは言わず、むしろこの表現には違和感を覚える一方で、「とても良い経験になりました」と言う方がしっくりくることからも、「体験」と「経験」の両者の違いを無意識ながらも前述したような感覚で使い分けていることもお分かりいただけると思います。

 

そういった意味では、詳しくは冒頭に触れたリンクの記事の中で書いていましたが、至高経験というものはそれにより得られるものが多く存在し、また至高経験の前後でいくつかの変化がその経験者に生じるため、この点においてもやはり「至高経験」という言葉の方がマズローの意図を反映する翻訳としては適切であると思われます。

言い換えれば、至高経験は単なる一時的で何も得るものがない体験ではなく、それにより多くの変化が起こると同時にその経験をすること自体に大きな意味と高い価値があるため、単なる「体験」という枠組みを超えた「経験」としての概念であるということですね

 

つまるところ、このような「体験」と「経験」という言葉の定義の違いからも「至高体験」ではなく「至高経験」という表現の方がマズローの主張に寄り添った日本語訳であるということが言えるのですが、実はこれ以外の観点から「至高経験」という表現の方がより適していると言える理由を掘り下げることで、至高経験のもつ特徴や性質をより正しく理解することにもつながっていくのです。

 

2.至高経験という表現の方が良い理由

 

ここからの内容は少々マニアックな話になるのですが、参考までに「至高経験」と「至高体験」のそれぞれの表現が、各マズロー著作においてそれぞれ何回くらい使われているのかをカウントしてみました。

ザックリとその結果だけお伝えすると、日本語訳されているマズロー著作のなかで最も初期の作品である『人間性の心理学』(小口忠彦 訳)では、「至高経験」と「至高体験」をそれぞれ10回ずつ以下しか使っておらず、その割合は半々くらいです。

なお、この頃のマズローは欲求階層や動機理論など提唱している段階であり、至高経験はもとより、それを詳しく体系づけた超越論についてもまだ全貌が見えていない段階です。

したがって、当然ながら至高経験についてはまだハッキリとした記述が少なく、両者の表現を使い分けている感もありません。

 

一方で、マズローの遺作であり集大成とも言える著書『人間性の最高価値』(上田吉一 訳)では、100回以上「至高経験」と使っているのに対し、「至高体験」という表現が使われているのは1回だけです

なおかつ、文脈的にもあえてこの1回だけ至高体験を分けて使っているとは思えないので、この1回は単純な誤訳・違訳と思われます。

なお、この『人間性の最高価値』という書籍はマズローが至高経験も含めた超越論について最も深く論じている書籍ですね。

 

また、日本で出版された二作品目である『完全なる人間』(上田吉一 訳)でもこれと全く同じ結果になっており、「至高経験」という表現は100回以上使っているのに対し、「至高体験」は1回だけです

もっとも、『人間性の最高価値』も『完全なる人間』も翻訳者が上田吉一氏であるため、二つの書籍において「peak experience」という単語が「至高経験」と主に訳されているのは当然と言えば当然かもしれません。

しかし、言わずもがな、上田吉一氏は最も多くのマズロー著書を翻訳されている方であり、なおかつマズロー研究の第一人者でもあることを考えれば、その上田氏が「至高体験」ではなく「至高経験」という翻訳をしていることからも、「peak experience」の日本語訳として望ましいのは「至高経験」であると言って良いと思います

 

また、日本で刊行された三冊目のマズロー著書である『創造的人間』(佐藤三郎・佐藤全弘 訳)のもともとの英語版の原題は『Religions,Values and Peak-experiences』なのですが、この原題を副題にしている『創造的人間』における副題の和訳は「宗教 価値 至高経験」となっており、やはり「至高経験」という語を選んでいます

そしてもちろん、本文でも「至高経験」という表現で翻訳がなされているのです。

 

つまり、書籍によっては「至高体験」という日本語訳がされている「peak experience」という英語ですが、体験と経験という言葉の意味の違いや、マズローの語る実際の内容、また各翻訳者の訳し方などの様々な面から考えると、その日本語訳にはやはり「至高経験」という表現が適していると思われます。

 

もっとも、「experience」という英単語の和訳には「経験」も「体験」も存在するので、結局は絶対に正しい正解はないようにも思えますが、このような視点で「peak experience」という英語表現を掘り下げることで、マズローの語る至高経験とはどのようなものなのかへの理解がこれまでとは別の視点から深まったのではないでしょうか。

そして、ここまでの内容を踏まえて、今度は「創造性」という切り口から至高経験を紐解くことで、至高経験という概念への理解が更に深まるとともに、それがただの「体験」という枠内には収まらないものであることも更にご納得いただけると思います。

 

3.至高経験は創造的経験?

 

ここではまず結論から言うと、マズローは至高経験においては特殊な創造性が発揮されると述べており、このような意味では至高経験の最中における状態や感覚は、人が最も創造的になる瞬間と類似しているとも言えると語っています。

つまり、至高経験と創造性とはお互いがお互いを補完し合うような関係性であり、一方への理解はもう一方への理解を促すのです。

したがって、より創造的になりたい場合は至高経験を深めることでそれは可能になり、至高経験への理解を深めたいのであれば、創造性という角度からこれを紐解くことが有効であるということですね。

 

このようなことを前提に、マズローは『人間性の最高価値』の「創造的態度」という章の中で至高経験(創造的経験)のさなかにおける状態の特徴を18個に整理して語ってくれているので、その内容を見てみましょう。

 

①過去の断念
至高経験においては、過去の経験、過去の習慣、過去の知識に依存して惰性的な概括(カテゴライズ)をすることなく、特異的・独自的なものとしていまを経験する。

②未来の断念
現在を単に将来の目的の手段としたり、いまここの経験を「将来の準備」にすることなく、未来を忘れ現在への全面的没頭をしている。

③無邪気
高度に創造的な人々は、もし仮に裸になったとしても(自分のすべてがさらけ出されたとしても)何らやましいところがなく、そこには因果論的な期待もなければ、「こうあるべき」という義務や、流行や習慣や固定観念などもないため、つまるところ彼らは子どものような無邪気さでいまここを楽しめる。

④意識の狭少化
目の間の対象に没頭することでそれ以外のことは意識に上がらなくなり、もはや世間の眼をそれほど気にしないので、結果的に更に自己自身になることができ、真の自己と真の同一性をもった存在になることができ、これは偽りの自分の仮面を剥ぐことでもあり、社会的な役割を演じないことでもある。

⑤自我の喪失、忘我、自意識の喪失
無我の状態は、自己忘却とともに、経験の批判と論評、評価、選択と排除、判定と考量、分割と分析などを止めることを意味しており、このような自己忘却は、人間の真の同一性、真の本性、最深の正体を見出す一つの方法と言える。

⑥(自己)意識の禁止力
自己意識は減少し、疑惑、葛藤、恐れはなくなり、自由で自発的に自己表現ができるようになるが、その一方で、自意識、自己観察、自己批判がなければ二次的創造性は発揮されないのも事実である。

⑦恐れの消失
恐れや不安もまた消失し、それにより抑圧、葛藤もなくなるため、勇敢で自信に満ちあふれ、恐れず、ひるまずにいられる。

⑧防衛や禁止の解除
自己防衛や自己統制も消失し、危険や脅威に対する防衛はもとより、自分自身の衝動への警戒心、防衛心、統制(ブレーキ)もなくなる。

⑨力と勇気
創造的態度は、勇気と力を必要とするものであり、あるいは創造的人物は全員、頑固、独立心、自負心、一種の尊大さ、性格の強さ、自我の強さ等々といった何らかの形での勇気をもっており、逆に恐れや弱さは創造性を退けるか少なくともその出現を妨げる。

⑩受容性ー積極的態度
「いまここ」の没頭と自己忘却の瞬間においては批判(論評、取捨選択、修正、懐疑、改善、疑問、否定、判断、評価)はぜずに、ありのままの存在に対して是認し、謙虚であり、不干渉であり、受容的であり、道教的になる。

⑪信頼対試行、統制、努力
ここまで述べてきたことは、自己ならびに外界に対する信頼感が増し、緊張や意欲、意志や統制、意識的対応や努力といった態度、あるいは支配し、威圧し、統制しようとする一般的努力を一時的にやめることであり、くつろぎとゆとりと受け身を示すことである。

⑫道教的受け身
特に創造性の一次的過程(インスピレーション面)においては、ある程度の受け身あるいは不干渉、「あるがままに受け入れる・委ねる」的な態度が必要であり、それはさながら芸術家が素材としての対象を、それが人であれ動物であれ樹木であれ物であれ、手を加えないその対象の自然のままのスタイル・あるがままの存在を愛し、育くみ、是認し、喜びとともに観察することである。

⑬B認識者の統合
創造することは一般的には全人的な行為であり、すなわち一人の人間として統合された完成した状態とも言え、その際に彼は最も統合しており、一体化されている。

⑭一次的過程の探究に対する承認
自己の統合においては、無意識的、前意識的側面、とくに一次的過程(あるいは 詩的、比喩的、神秘的、原始的、古代的、小児的)を受け容れることにある。

⑮抽象化よりも美的観賞
創造的な態度においては、基本的に抽象化せずに具体的に美的現象学的に観察される。

⑯完全なる自発性
完全なる自発性により即興的な対応ができ、画家は断えず自己の絵の発展に伴う要請に融通無碍に応じ、レスラーは相手の出方に臨機応変に応じ、優美なダンサーは互いに縦横無尽に相手に順応し、それらはさながら水が割れ目や地形に抗うことなくそれらに沿って優雅に流れるがごとくである。

⑰完全な表現性
完全な自発性は、最も自然な表現、すなわち自由で有機的にオリジナルな自己表現を可能にするものであり、自発性と表現性は、ともに本当の自分への忠実性、自然性、真実性につながるものであると同時に、これらは何らかの外的な目標に対する手段ではなく、それ自体が目的となる。

⑱人格と外界との融合
これはもはや創造性の必要条件と考えてよいものであり、これはいわゆる異種同型として、相互の切磋琢磨として、漸進的な相互適合あるいは相互補完として、もしくは融合一体化としてとらえることができるものであり、葛飾北斎が「小鳥を描こうとすれば、小鳥にならなければならない」と言ったものと同じことである。

 

さてさて、以上のような18の内容が、至高経験と創造的経験に共通するものなのですが、少々難解な表現だったり抽象的なもの言いになっている部分はあれど、至高経験や創造的経験がどのようなものなのかへのイメージは幾分かでも深まったのではないでしょうか。

 

つまるところ、至高経験とはこのような状態や認識をもたらす創造的な経験であり、それは単なる「体験」という範囲に収まるものというよりは、もっと実利的で本質的な変化をもたらす「経験」であるということが言えると思います

このような意味でも、やはり「至高体験」という表現よりも「至高経験」という表現の方が、マズローの語る「至高」や「創造」にまつわる様々な内容をしっかりと網羅していることになると言えるでしょう。

 

ということで、ここまでの内容をまとめてこの事を言い換えれば、至高経験を「体験」という狭い範囲内の概念にしてしまうことなくしっかりと自分事として腑に落ちている「経験」にするためにも、これらの内容も含めてマズローの語る話や彼が伝えようとしている本質をちゃんと見極めて吸収することが大切なのですね。

 

なお、ここまでの内容が想像以上にボリューミーになってしまったため、この記事の冒頭で触れた「至高経験=フロー体験ではない」という話題については、こちらの別のコラムにまとめたので、ここまでの内容への理解を更に深めてくれる知識として是非一度ご一読いただければと思います。

 

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