BUMP OF CHICKENの「涙のふるさと」という楽曲は、僕たちが本当の自分が分からなくなってしまったり、自己実現の迷路に迷い込んだりしてしまった時に、そっと傍に寄り添ってくれる素敵な楽曲だと思います。
今回は、このような視点から、この曲の歌詞に秘められたメッセージを紐解いてみたいと思います。
【歌詞引用】
BUMP OF CHICKEN「涙のふるさと」
作詞:藤原基央
作曲:藤原基央
突然ですが、僕たちはどうして涙を流すのでしょうか?
悲しい涙、嬉し涙、感動して流れる涙、理由もなく零れ落ちる涙…。
そこにはもしかしたら理由なんてないのかもしれませんが、涙という存在は、そのような意味でも本当に不思議な存在です。
探さなきゃね 君の涙のふるさと
頬を伝って落ちた雫が どこから来たのかを
出掛けるんだね それじゃここで見送るよ
ついていけたら嬉しいんだけど 一人で行かなきゃね
泣いたって何も変わらないことは、残念ながら往々にしてあります。
むしろ、涙を流すことで悲しみが更に深まってしまったり、問題が余計に複雑になったりすることもあるでしょう。
あるいは、もしかしたら自分が泣くことで他人に迷惑をかけたり、誰かを不快な気持ちにさせてしまうこともあるかもしれません。
しかし、それでも瞳から溢れ出してしまう涙というものはあるものです。
きっと、涙というのは、決して目には見えない僕たちの「感情」というものが、目に見える形として世界に姿を現しているだけなのかもしれません。
いずれにしろ、涙を流したままでは前に進むことはできません。
涙を拭ってはじめて次に進むことができるのです。
涙もきっと、心配のあまりこの先もずっと付き添っていきたいのかもしれませんが、それが僕たちにとって望ましいことではないことを、ちゃんと理解してくれているのでしょう。
だからこそ、その役目を終えた後は心を鬼にして、それでも優しい表情を見せながら見送ってくれるのですね。
リュックの中は空にしたかな
あれこれ詰めたら 重いだろう
そのぬれた頬に 響いた言葉
それだけでいい 聞こえただろう
恐れから生まれる執着心や不安は、僕たちが何かを手放すことを難しくします。
それどころか、「もっと!もっと!」と更にたくさんの荷物を抱え込まそうとします。
本当に必要だったのは抱え過ぎた重荷を手放すことなのに、多くの場合はそれを所有することによって幸せになるのだと勘違いしているため、むしろ更に所有物を増やそうとします。
しかも、社会には「まだ足りない!まだ足りない!」と恐怖をあおる存在は無数にあるので、ゴールすることなど決して訪れないレースへと僕らは今日も駆り立てられるのです。
しかし、そのレースというのは、実は前に進んでいるように見えて、本当に自分が進むべき道とは反対方向へとこっそり誘導されていることもしばしば。
マズローの語る「成長方向への選択」ではなく「安全方向の選択」をすることにより、僕たちは自分でも気付かぬうちに本当の自分からどんどん遠ざかってしまいます。
それにより、自己実現とは対照的な「疑似自己」という状態と化してしまった嘘偽りで塗り固められた自分に気付くことさえなく、レースを走り続けることを余儀なくされます。
そうなれば、自分らしい感性や個性、本当の感情、内側の声は、見るも無残に影も形もなく消え去ります。
そうして、他者や社会の価値観を代わりに取り入れることで、食べるために生きる人生を持続しようとしてしまうのです。
しかし、言うまでもなく、これは人間らしい在り方とは真逆の人生です。
心はそのことを知っているので、なんとかしてそのことに気付いてもらおうとしてくれています。
「会いに来たよ 会いに来たよ
君に会いに来たんだよ
君の心の内側から 外側の世界まで
僕を知って欲しくて 来たんだよ」
もしかしたら、涙は僕らが生きるこの世界に出てくるまでに、様々な困難を乗り越えて表に出てきてくれているのかもしれません。
自分が逆の立場だったら、到底耐えられないような厳しい道のりを経て、瞳から姿を現してくれているとしたら…。
ましてや、僕たちは大人になるにつれて、そうして近づいてきてくれた涙を寸前でブロックすることを学びます。
そこには固定観念や思い込みや、恥や失敗への恐怖心などがありますが、いずれも涙にとっては、ここまでの自分の全てを台無しにするような存在。
本当は僕たちを助けるために姿を見せようとしてくれているのに、助けようとしているその本人から最後の最後で冷たく突っぱねられてしまうのです。
見付けなきゃね 消えた涙の足跡
彼の歩いた道を逆さまに 辿れば 着くはずさ
見つめなきゃね どんな淋しい空でも
彼も見てきた空だと知れば 一人じゃないはずさ
あるタイミングでふと涙の大切さを思い出しても、ときすでに遅し。
もう、あちらから歩み寄ってきてくれることはなくなっています。
なので、もう一度涙と手をつなぎたいのであれば、こちらから歩を進めるしかありません。
そして、その道程を実際に自分が歩いてみることではじめて、これまでいかに涙が勇気をふり絞ぼって歩いてきてくれていたのかに気付けます。
逃げてきた分だけ距離があるのさ
愚痴るなよ 白業自得だろう
目的地は よく 知ってる場所さ
解らないのかい 冗談だろう
恐怖心から後ずさりする逃げの選択をし続けてきた分、元の場所に変えるのには時間がかかります。
今までずっと本当の自分を奥の奥に押しやってきたが故の、それに応じた果てしなく長い距離が佇んでいるのです。
しかし、戻るべき場所というのは、どこか自分の外側にある場所ではありません。
誰しもが、子供も頃はいつでもすぐに還ることができた場所に還ればいいだけです。
それは理想像としての到達点でもなければ、ヒエラルキーの頂点に昇りつめることでもありません。
むしろ、ベクトルの向きはそれらとは真逆の旅路になるものです。
自分の奥の奥のほう、あるいは深い深い部分に還る道のりが、本当に目指すべきゴールです。
到着だよ ほら 覚えてるかな
いつか付いた傷があるだろう
君の涙が生まれ育った
ふるさとがあるだろう
新しい雫がこぼれたよ
治らない傷を濡らしたよ
全てはこのため この時のため
とても長い旅を越えて
今まで長きにわたりぞんざいに扱い続けてきたことで、いつの間にかそれは傷だらけの姿になっていました。
目に見えないからこそできていた酷い仕打ちをしていた事実をはじめて知り、その残忍さに我ながら驚きおののいて罪悪感に苛まれてしまうこともあるかもしれません。
しかし、それでもそれを受け容れ、抱きしめることで、はじめて癒えるものがあります。
干からびてカサカサになってしまったそれをもう一度潤いで満たすことができるのは、他ならぬ自分自身だけです。
「会いに来たよ 会いに来たよ
消えちゃう前に来たんだよ
消せない心の内側から
遠ざかる世界まで
ちゃんと見て欲しくて」
「会いに来たよ 会いに来たよ
君に会いに来たんだよ
君の涙のふるさとから
乾ききった世界まで
僕を知って欲しくて
君を知って欲しくて
来たんだよ」
涙というのは、きっと、自分の気持ちの代弁者であると同時に、自分自身でもある存在なんですね。
だからこそ、涙のことを知れば知るほど、本当の自分と繋がることができます。
涙を拒絶するのではなく、それと手をつなぐことで、僕たちは自分自身に還ることができるようになるのでしょう。
笑わないでね 俺もずっと待ってるよ
忘れないでね 帰る場所がある事を
僕たちが還る場所は、いつも常にそこにありました。
生まれてから片時も傍を離れることなくそこにい続けてくれていましたし、今後もそれがどこかに行ってしまうこともありません。
自分を変えようとアッチへコッチへと駆けずり回り疲れ果ててしまったときこそ、自分の内側に目を向けるときです。
どこか遠くにあるはずのマボロシの未来を追いかけるまやかしの旅ではなく、いまここにあるありのままの自分自身を謳歌する旅のことを、マズローは「自己実現」と呼んでいました。
涙という存在は、僕たちがそんな幻想の世界にハマり込んでいるときに、そのことに気付かせてくれる存在なのかもしれません。
BUMP OF CHICKENの「涙のふるさと」は、そんなことを、優しく切なくも力強いメロディとともに思い出させてくれる、素敵すぎる名曲ですね。
※このコラムの内容は、あくまでもマズロー心理学という眼鏡をかけた目で見た個人的な解釈であり、この曲の作り手・歌い手・演者の方々が込めてくれたメッセージの感じ方の一つです。