今回の記事では、至高体験(至高経験)と混同されがちなフロー体験について掘り下げてみることで、両者の違いを明確にしてみたいと思います。
また、今回は諸事情によりタイトルでは至高「体験」という言葉を使っていますが、これ以降の本文では至高「経験」という表現を用いますのでご了承ください。
ちなみに、至高「体験」と至高「経験」という言葉の違いについては下記のコラムで詳しく説明しているので、まだお読みでない場合は後程ご覧いただければと思います。
もくじ
1.フロー体験とは?
それでは、まず最初にフロー体験とは何かを簡単に整理してみましょう。
フロー体験とは、ハンガリー出身のアメリカ心理学者であるミハイ・チクセントミハイによって名付けられた概念で、 何かに夢中で没頭しており、それ以外の他のことを完全に忘れている状態のことです。
これは、いわゆる「ゾーン」や「無我の境地」、あるいは「忘我状態」とも呼ばれるものですね。
もしくは、心理的エネルギーを何か一つのものだけに向けて集中して行動できている状態のことを指すという説明もできます。
ちなみに、これは何も特別な人だけに訪れるものではありません。
たとえば、テレビゲームやスマホゲームに熱中していたり、漫画や小説を時間も忘れて読み進めていたり、スポーツをしている時に周囲を忘れたり時間感覚が普段とは違って感じられるときなども、フロー体験の一つと言えます。
そういった意味では、フロー体験というものは、何も特殊な人にだけ起こるものではなく、条件さえ整えば誰にでも起こりうる体験と言えるでしょう。
ちなみに、この点に関してはマズロー心理学における至高経験と同様であり、マズローも自身の語る至高経験は限られた一部の人だけに与えられる経験ではなく、どんな人にも訪れる経験であり、むしろ至高経験を経験済みであることを本人が自覚していないケースもあると述べていました。
また、フロー体験の名前の由来は、その経験のさなかにおいては「流れている(floating)」ような感じや、自分が「流れ(flow)」に運ばれている・乗っている感覚があることから「フロー体験」と名付けられたのですが、この事もマズローの語る至高経験と共通する内容だと言えます。
なお、これらも踏まえて、フロー状態に入るための条件として、チクセントミハイはフロー体験を経験する本人の「スキルレベル」と「挑戦レベル」が共に高い必要があると述べていたことに触れておきましょう。
端的に言うと、フロー体験は、自分にとって簡単すぎることでは起こらず、また自身の能力値が低い場合にも起きません。
これは、スポーツであれ勉学であれ仕事であれ、スキルが高い人は難易度の低いことに取り組んでもそれを退屈に感じることや、逆にスキルが低い人が自分の力量を遥かに上回る難易度の事に挑戦すると不安を感じることにも通じる理論なのですが、これらのことをチクセントミハイは下記のような相関図で整理してくれています。
この図は、チクセントミハイ著の『フロー体験入門』に掲載されている図に少しデザインを加えたものなのですが、なかなか分かりやすいマトリックスとしてチクセントミハイはまとめてくれていますね。
つまり、フロー体験が生じる条件の一つが、スキルレベルと挑戦レベルがともに高いことであり、その状況において流れるような無我の境地としての没頭が生じるのです。
そして、これも踏まえてチクセントミハイは、「フロー体験を構成する8つの要素」を挙げています。
その内容は下記の8つになりますね。
1.達成できる見通しのある課題に取り組んでいる
2.自分のしていることに集中できている
3.明確な目標が設定されている
4.フィードバックがある
5.没入状態で行為をしている
6.自分の行為をコントロールできている感覚がある
7.自己についての意識が消える
8.時間に対する感覚が変わる
「1.達成できる見通しのある課題に取り組んでいる」に関しては、先ほどのスキルレベルと挑戦レベルの話に通じる内容ですね。
その目標の達成が難し過ぎるとやる気が出なかったりするのは誰しもが経験していることだと思いますし、「頑張れば何とかできそう!」という事に取り組む際にパフォーマンスが最も高まるというのは納得のいく話と言えます。
「2.自分のしていることに集中できている」と「3.明確な目標が設定されている」についても、フロー体験自体が集中していることであり、そのためには明確な目標があることが条件であるということも頷けるでしょう。
4の「フィードバックがある」とは、自分のしている行為の結果をその都度確認し、それによって修正を加えたり行動を変化させたりすることであり、言い換えればアウトプットとインプットの双方のやり取りができていることがフロー体験時の要素ということです。
5の「没入状態で行為をしている」というのはこれまで見てきた内容そのものですし、6の「自分の行為をコントロールできている感覚がある」というのも、フロー体験においてはある種の全能感や万能感や完全な支配感・統制感があり、それゆえに流れに上手く乗った高いパフォーマンスを発揮できるのです。
また、そのような状況下では「7.自己についての意識が消える」という無我の状態が訪れ、「8.時間に対する感覚が変わる」ことで、時間が止まって感じたり、時間が流れるのが遅く感じ目に見える現実が超スロー映像のように映ることが起こったり、あるいはあっという間に時間が過ぎ去るようなことが起こります。
以上のような八つの要素がフロー体験を構成するものなのですが、これはマズローの語る至高経験とかなり類似するものと言えそうです。
しかし、一方で、至高経験との明かな相違点もありますね。
ということで、ここまでの内容を踏まえ、今度はマズローの語る至高経験の特徴を振り返ってみましょう。
2.至高経験の16の特徴
マズローは様々な切り口で至高経験の特徴を整理しており、著書によってその説明の仕方やピックアップしているポイントが異なるのですが、今回は『完全なる人間』という著書のなかで整理されている16個の特徴を用いたいと思います。
これらの内容を一つずつ見ていった後で、最後にフロー体験との違いを整理してまとめてみましょう。
至高経験の特徴
①統合的
至高経験している人は精神の統一 (合一、全体、 一体)を感ずるとマズローは述べていました。
あるいは、そのことを「統合」という言葉で表現することもあります。
いずれにしろ、自分の内側においても自分と自分以外の物事との関係性においても分離や分裂が少なく、平和な状態です。
行為者としての経験する自己とそれを客観的に俯瞰して観ている自己との間にずれが少なく、 本人のすべての機能がたがいに齟齬なく巧妙に体制化され、それが集中的・ 調和的・効率的にはたらいています。
②同一的
至高経験において本人が一段と純粋で単一の存在になるにつれ、 世界と渾然一体に深くつながることができるようになり、以前には自己でなかったものとも融合するようになるとマズローは述べています。
その事例としてはマズローは、たとえば、 恋人たちがより緊密で密接になることで彼らがニ人の別の人間というよりむしろ一体となっていることや、創造的な人が自分の創造している作品と一つになること、あるいは、子どもを自分の一部として感じている母親や、音楽や絵やダンスになりきるアーティストたちなどを挙げています。
これは、自己意識の消失であり、自他の分離が消え対象と融和・融合している状態と言えるでしょう。
③完全性
至高経験においては、本人はそのカの絶頂にいると感じられ、その人の能力は最善かつ最高度に発揮されているとマズローは述べています。
これは「完全に機能している」とも言い換えられ、 本人は他のときと比べて、知性を感じ、認知力に優れ、才気に富み、力強く、 好意的であることを感じます。
なお、 このことはただ本人にとって主観的に感じられるばかりでなく、 他者から客観的に見た場合も同様の印象を受けます。
つまり、自他ともに認める最善・最高・最良の完全なる状態が至高経験においては実現するのです。
④無為・無努力
先ほどの完全に機能するという状態を少し違った面から見ると、人が最善の状態にあるときは、苦労せずしてスムーズに物事が進むということが言えます。
そうなると努力・緊張・苦闘・作為は必要なくなり、よどみなく、やすやすと、成果や結果に結びつきます。
実際、大事を成し遂げる偉大なスポーツマン、 芸術家、創造者、 指導者、政治家は、最善をつくしたときにこのような状態にあるとマズローは述べています。
これを違う言葉で言えば、「無動機」「無努力」「無欲求」「無願望」「無干渉」といった言葉が当てはまり、受容的でゆとりある穏やかさのなかで展開されるものでもあります。
⑤自発的
至高経験においては、自分自身を能動的、自発的な責任者としての創造的主体であると感ずることがあるとマズローは言います。
それは、多くの場合の人に動かされたり決定されたりする、無力で、依存的、受動的で、弱々しく、隷属的である状態とは対照的なものです。
自分自身が主体であり、自己決定者であると感じられ、断固とした決意と本質的な自由な意志によって自己の運命を自分の手で開拓していると感じるのです。
その姿はまるで、自分の価値を一切疑っておらず、やろうと決めたことはどんなことでも実行する能力をもっているかのように感じます。
周囲にとっても、その人は信頼でき、あてになり、頼ることのできる人物になるのです。
⑥束縛からの自由
マズローは、至高経験の六つ目の特徴して、障害、抑制、警戒心、恐怖、 疑惑、 統制、遠慮、 自己批判、制止などからの自由を挙げています。
これらはいずれも 、自己有用感や自己受容、自己尊重の否定面であり、これらを手放すことで束縛の鎖から解放されます。
自分を縛り付けるこのような要素から自由になり、素直な自己を信頼し、ありのまなの自分を表に出すことができます。
⑦解放的
六番目の特徴と関連するものとしてマズローは解放的という切り口での説明をしており、そのキーワードには「天真爛漫」という表現を用いています。
ここで言う天真爛漫とは、悪意がなく、純朴で、正直、率直、純真で、あどけなく、飾り気もなく、開放的で、気どらないことです。
一方で、それは自然で、シンプルで、滑めらかで淀みなく、敏活で、素直で、誠実で、とり繕っていない素朴で実直な状態でもあります。
自分を不自由にするこだわりもないため、自己を自由に表出する天衣無縫(飾り気がなく純粋な自然体で、しかも完全で美しいこと)のことですね。
⑧創造的
至高経験と創造性の発揮は非常に密接な関係性にあります。
至高経験においてはマズローが語る特殊な創造性が発揮され、創造的な活動が可能になります。
新しいものを発見したり、今までにないものを発明したり、優れたインスピレーションや突出したクリエイティビティが発揮されるのです。
特定の啓示や気づきを通して創造性を創出することもありますが、いずれにしろ、それはその人の個性や可能性が開花した創造性の表出です。
⑨独自的
マズローは、至高体験とはある種の独自性、個性、特異性の極致にあると言えると語ります。
言うまでもなく、僕たち人間は一人一人全く異なる存在ですが、至高経験の際にはことさら純粋にそれぞれの個性が際立つのです。
また、このことを別の言葉で言えば、それはすなわちその人の真の自己へより一層近く進むことであり、よりいっそう真の人間となることであるとも表現できます。
つまるところ、それはオリジナリティ溢れる経験であり、唯一無二の存在であることが強調され世界にただ一つの個性が最高潮に浮き彫りになることであるとも言えるでしょう。
⑩いまここへの集中
至高経験においては、個人は最もいまここの存在であり、 いろいろな意味において過去や未来から最も自由であり、 その瞬間の経験に対して最も開かれています。
したがって、 過去の出来事から推測される予想や、将来の計画にもとづ く希望や懸念などに引きずられることもなければ、今この瞬会の経験を歪めることもありません。
それは現在を未来に対する手段として捉えるのではなく、 現在それ自体が目的となっているということであり、過去や未来という時間軸を超えた時空間の超越と言えるものです。
またマズローは、これはすなわち願望からの超越であり、恐れや憎しみ、あるいは個人的な欲求や自己都合といった色眼鏡でものを見ようともしないことでもあると述べています。
⑪内面的
至高経験のさなかにいる人は、より一段と純粋に精神的なものとなり、自分の内的世界の重要度が増します。
自分の外側である他者や社会の法則でななく、自分の内なる世界の法則やルールに基づいて生きるようになり、それはイコール本質的な法則や規則によってのみ生きることと同義であるとマズローは述べています。
そしてそれは、精神内と精神外の世界の融合であり、内的世界と外的世界の統合なのです。
言い換えれば、至高経験は、物理的な世界よりも精神的な世界に生きるようになることであると同時に、それらの分離がなくなり自分の内側と外側の一体化をもたらすのですね。
⑫無為・無欲
無為・無欲という面が強調されることが、至高経験における特色でもあります。
至高経験において、人は動機をもたなくなり、あるいは何かを欲しないようになります。
これは、行動そのもののため以外の意図はまったく存在していないと言い換えてもいいでしょう。
本人の行動や経験はそれ自体のためであり、それ自体として正当化されるもので、手段としての行動や手段としての経験ではなくむしろ目的としての行動・経験になるため、そこにはもはや打算的な作為や理論的な欲求は存在しないのですね。
⑬詩的・神秘的
至高経験を伝える表現方法や伝達方法は、詩的、神秘的、叙事詩的になりやすいとマズローは言います。
むしろ、言語で伝えられる類のものではないので、言葉以外の手法で表現するほうが望ましいことも大いにあります。
したがって、それは詩人、画家、音楽家、予言者等々の性格を帯びるようになるのです。
ある種のアーティスティックな要素やクリエイティブな性質が必要とされ、またもたらされるのででしょう。
⑭完了・終局的
マズローは、すべての至高経験は、ある意味における「行為の完了」として、あるいは「完全なるオーガズム」や、カタルシス、クライマックス、成就、空虚、終結として理解できるかもしれないと述べています。
つまるところ、至高経験とはある種のゴールであり、到達点であり、完成形であり、終着点でもあるのです。
それは、究極性、完全性を体験することであり、場合によっては「美しい死」に近いもののようであるともマズローは表現しています。
つまり、最高・最上・最良のこの上ない至高経験は、ひとつの完全な成就や終局を意味するものかもしれませんね。
⑮ユーモラス
ユーモアや遊戯性は、マズローが人間の究極的満足対象とした「B価値」に含まれる価値の一つですが、至高経験においてもこれが最も多く報告されているそうです。
それは、神がかったレベルの幸福の喜び、満ち溢れる陽気さ、あるいは愉しさと呼ぶことができるものです。
そこでは、人間の矮少(弱さ)と偉大(強さ)の双方に喜びや楽しみを見出すことができます。
それは、抑止、抑制、疑いから解放された楽しみであり、美や愛や創造的知性による遊びであり、成熟した遊戯性と言えるものになります。
⑯感謝の念
至高経験の間およびその後では、著しく幸福、幸運、恩寵を感ずるとマズローは語ります。
至高経験というものは、起こりやすい条件を整えることはできても結果的にそうなるか否かは完全にコントロールできるものではなく、したがってそれは企図されるものでも、計画にしたがってもたらされるものでもありません。
言い換えれば、それはまったくの偶然におこるものです。
したがって、至高経験とは「喜びでもっておどろく」のであり、「快い知ることのショック」を覚えることが非常に多いとマズローは言います。
だからこそ、それが起こった際に、人はみな一様に感謝の気持ち、畏怖の念、尊大や誇りや謙虚さの統合、恩寵にあずかったのだという感覚、有り難さが溢れ出るのですね。
さてさて、マズローが『完全なる人間』で整理してくれていた至高経験の16の特徴は以上になりますが、やはりどうしても抽象的な表現が多くなってしまいますね。
とはいえ、だからこそ、この内容とチクセントミハイが語ったフロー体験との共通点や相違点を照らし合わせることで、双方へのより深い理解へと繋がるのです。
ということで、この記事の最後のまとめとして、マズローの至高経験とチクセントミハイのフロー体験との比較をしてみましょう。
3.フロー体験と至高経験の違い
さて、まずは先ほど登場したフロー体験を構成する8つの要素に再び登場してもらいましょう。
1.達成できる見通しのある課題に取り組んでいる
2.自分のしていることに集中できている
3.明確な目標が設定されている
4.フィードバックがある
5.没入状態で行為をしている
6.自分の行為をコントロールできている感覚がある
7.自己についての意識が消える
8.時間に対する感覚が変わる
これに、今しがた見た至高経験の16の特徴を当てはめてみると下記のように整理できますね。
1.達成できる見通しのある課題に取り組んでいる
→該当なし
2.自分のしていることに集中できている
→⑫無為・無欲 ⑤自発的
3.明確な目標が設定されている
→該当なし
4.フィードバックがある
→⑪内面的
5.没入状態で行為をしている
→④無為・無努力
6.自分の行為をコントロールできている感覚がある
→③完全性 ⑥束縛からの自由 ⑦解放的 ⑧創造的
7.自己についての意識が消える
→①統合的 ②同一的
8.時間に対する感覚が変わる
→⑩いまここへの集中
(9).フロー体験に該当しない特徴
→⑨独自的 ⑬詩的・神秘的 ⑭完了・終局的 ⑮ユーモラス ⑯感謝の念
それぞれについて簡単に補足をすると、「1.達成できる見通しのある課題に取り組んでいる」という要素は、至高経験の特徴のなかで近しいものはないと言えます。
もちろん、余りにも無謀な事だったり逆に難易度が低くてポテンシャルが最大限発揮されない場合に至高経験が起こるとは言い難いように思えますが、達成できる見通しがあるか否かという点に関しての記述をマズローは残していません。
「2.自分のしていることに集中できている」に関しては、集中している状態はすなわち「⑫無為・無欲」であり、能動的な「⑤自発的」取り組みであるからこそ完全に集中できると言えますよね。
「3.明確な目標が設定されている」についても1と同様に至高経験の特徴の中で該当しているものはないと思われ、至高経験においては明確な目標の有無はそれほど重視されていないと言えると思います。
「4.フィードバックがある」は、「⑪内面的」のなかで語られた外界と内的世界の関係性の変化や双方の統合と近しい内容と言えるでしょう。
「5.没入状態で行為をしている」と「2.自分のしていることに集中できている」はかなり近しい内容と言える点でも、至高体験の特徴としては「④無為・無努力」という没頭し熱中している状況と一致する内容と言えますね。
「6.自分の行為をコントロールできている感覚がある」に関しては、至高体験における「③完全性」そのものの内容と言え、また「⑥束縛からの自由」や「⑦解放的」という状態によって「⑧創造的」な性質が引き出されそれらを含めた自他をコントロールできている感覚はまさに至高体験とフロー体験に共通する特徴と言えそうです。
「7.自己についての意識が消える」についても、至高体験とフロー体験の共通項と言え、「①統合的」と「②同一的」において語られた無我や自己忘却や自意識の消失と一致する話になります。
「8.時間に対する感覚が変わる」は、至高経験における時空間の超越である「⑩いまここへの集中」が当てはまり、フロー体験中の時間感覚の変化は至高経験との共通項と言っていいと思います。
なお、フロー体験を構成する8つの要素に該当しなかった至高経験の特徴は、⑨独自的⑬詩的・神秘的⑭完了・終局的⑮ユーモラス⑯感謝の念の五つになりますが、これらも捉えようによってはフロー体験と紐づけることができるかもしれません。
とは言え、フロー体験においてはオリジナリティや個性の発揮は重要視されておらず、詩的・神秘的・情緒的といった要素についても語られておらず、それが完了や終局的なものであるという点や遊戯性やユーモアがあるか否か、感謝の念が湧き起るか否かも重要な要素ではないようです。
つまり、これらの照らし合わせを考慮して言えることは、マズローの至高経験とチクセントミハイのフロー体験は共通項があるものの、一方に当てはまるものがもう一方には当てはまらないという関係性が互いに言い合えるということです。
そして、その共通項と相違点をまとめれば、下記のようになりますね。
【共通点】
・誰にでも起こりうるものである
・無我や自己忘却といった没入状態で没頭している
・自分の能力が最大限に発揮され完全な状態になっている
・時間軸や時間の流れが普段とは違っている
・内なる世界と外界の世界が調和されている
・万能感や全能感がある一方で、無為として大きな流れに沿っている感覚がある
【フロー体験のみに該当する要素】
・達成できる見通しや明確な目標設定がある
【至高経験にのみ該当する要素】
・独自的(個性やオリジナリティの発揮)、詩的・神秘的であり完了・終局的経験、ユーモラス、感謝の念が湧く
こうして比較すると、双方の違いがより明確になるだけでなく、マズローとチクセントミハイの世界観の違いもよりクッキリしてきますね。
なお、念のため述べておくと、これらの照らし合わせはあくまで共通項があったり似たような事を述べているという意味であり、双方が完全に一致していない場合もあります。
また、ここでは取り上げていないチクセントミハイの意見やフロー体験の特徴も併せて考えれば、これとはまた違った分類や分析ができるでしょう。
あるいは、双方の主張をどう解釈するかによって該当する番号や組み合わせなども変わってくると思います。
このようなことも踏まえ、最後に全体的な結論を述べるとするなら、それは、至高経験にフロー体験にしろ、それを実際に経験した人でなければその真価は分からないということでしょう。
言い換えれば、情報としてこれらを学んだり頭を使って論理的に理性で理解しても、実際に自分の体と心を使ってこれらを経験した人でなければその本当の価値は分からないという点は、両者の揺るぎない共通項だと思います。
そういった意味では、ここまで見てきた両者の比較を参考にしながら過去の自分の経験を振り返ってみると、自分のとある経験がフロー体験や至高経験だったことに気づくかもしれません。
あるいは、今後何かのきっかけでどちらかを経験した際に、それを自分のなかでより深く理解するためのツールとしてこのような比較が役立つような日が来るかもしれないですね。
または、この比較によって、自分の好みにはどちらの方が近くて、より経験してみたいのはどちらなのかが明確になったかもしれません。
いずれにしろ、マズロー研究家である僕としては、今回のフロー体験と至高経験との比較は新しい発見に繋がるものであり、この記事をお読みくださった方にも同じような価値を感じていただければ幸いです。
つまるところ、フロー体験にしろ至高経験にしろ、こういった少し特別な経験を一つの目標に据えてみることで、僕たちの人生はより味わい深いものになるのではないでしょうか。