社会現象を巻き起こした大ヒット漫画『鬼滅の刃』と、最近になって話題沸騰中の漫画『呪術廻戦』は、なぜこれ程までの人気を得ているのか?
そのヒットの裏側にある、両漫画に共通する現代人の心理を探ってみたいと思います。
印象が暗めの漫画がヒットするのが現代?
ひと昔前に流行った、各時代を代表するような少年漫画と言えば、『ドラゴンボール』『スラムダンク』『ワンピース』などですよね。
これらの漫画に比べると、やや世界観が暗い気もする『鬼滅の刃』と『呪術廻戦』。
実際、漫画の表紙は両方とも黒ベースですし(ワンピなどは基本原色で彩度も明るめ)、鬼滅のメインテーマは「鬼」や「死」で、呪術のテーマはその名の通り「呪い」。
色々な意味で『鬼滅の刃』も『呪術廻戦』も、その作風や全体的な雰囲気やメッセージ性は、過去の人気漫画とは少し毛色が違いますよね。
一説によると、近年はいわゆる「邪道な王道マンガ」が人気傾向にあり、これはまさに漫画「バクマン。」に時代が追いついたという意見もあるようです。
ではなぜ、そのような少し前の人気漫画とはある意味で対称的なイメージを受けるこの二つの漫画は、これほどまでに現代の人々を魅了するのでしょうか。
結論から言うと、「鬼滅の刃」にも「呪術廻戦」にも、僕たちの多くが心に秘める「とある陰の部分」を忠実に再現しているからなんです。
別の言葉で言い換えれば、自分では普段は意識していない「心の裏側」とも言うべきものをあれらの作品のなかに読者は知らない間に見出しているということです。
大勢の人々が漫画を通して無意識ながらそれに共感しているからこそ、この二作品は多くの人を魅了するのだと思います。
では、その「陰の部分」とは、いったいなんなのでしょうか?
鬼滅の刃に見る「恐怖心のチカラ」
二つの漫画に共通する、多くの現代人が無意識下で共感する要素を探るために、それぞれの漫画の特徴をさらっとおさらいしましょう。
まず、「鬼滅の刃」は主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が、自分の家族を殺された鬼と戦っていく中での成長ストーリーを描いた漫画ですね。
炭治郎が鬼と戦う目的は、家族の中で唯一生き残ったものの半分鬼と化してしまった妹の禰豆子(ねずこ)を人間に戻すところにあります。
そのために炭治郎は修行を重ね成長することでより強い鬼と戦う必要があるのですが、その鬼たちの総大将でありすべての鬼たちのトップに君臨するのが、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)という鬼の始祖です。
人を食い殺すことで生き延びる鬼はすべてこの鬼舞辻から生まれており、彼を倒さなければ平和な世の中も訪れません。
そして、この設定の重要ポイントが、「恐怖による支配」という点です。
鬼舞辻の配下の鬼たちは、鬼舞辻を非常に恐れています。
その鬼舞辻への恐怖心は常軌を逸したものがあり、彼の存在を思い出すだけで震えが止まらなくなったりするほどです。
なぜなら、鬼舞辻から認められないことは鬼たちにとってはすなわち死を意味するからです。
実際、鬼舞辻に反抗的な態度をとったり彼の指示を無視するような鬼は、それこそ虫けらのように鬼舞辻に殺されます。
つまり、鬼舞辻と部下の鬼の間には揺らぐことのない徹底した主従関係があり、それを成立させているのが鬼舞辻への圧倒的な恐怖心なのです。
このような支配者への恐怖心は人間にも誰しもに存在しますし、読者は多少なりともそこに共感しているのも鬼滅の刃に無意識に惹かれる面の一つでしょう。
しかし、それとは別の軸で強調すべきポイントがもう一つあります。
それは、配下の鬼たちは鬼舞辻を恐れていますが、鬼舞辻自身も「とある恐怖心」に突き動かされているという点です。
鬼舞辻が抱え続け、あらゆる原動力にもなってるその恐怖心とは、「死ぬこと」への恐怖心。
「生き続けたい」「死にたくない」「不死」という観念に鬼舞辻は憑りつかれており、言うなれば、彼は「生への執着」の塊のような存在です。
自分の生を確かなものにし、死ぬことのない完全体になることを目指すためには手段をいとわないのが鬼舞辻無惨という男と言えます。
つまり、すべての鬼を恐怖によって支配する鬼舞辻自身が、死ぬことへの恐怖心に支配されているのです。
そして言わずもがな、この死ぬことへの恐怖心から生じる「生への執着」は鬼舞辻に限らず、僕たち人間も、誰しもがもっている欲求です。
これをあえてマズローの欲求階層でいえば、すべての基本的欲求の土台にある「生理的欲求」、すなわち「生きていたい!」という欲求ですね。
自分という存在のすべてのベースになっているこの欲求の満足が脅かされることに対する恐怖心がときにものすごい力を発揮することは、多く方が共感できるものでしょう。
電子書籍『マズロー心理学と欲求階層』にも書きましたが、実際、この欲求への執着が度を超すと、僕たちは他人を傷つけることもいとわないのです。
とはいえ、鬼舞辻に見られる「生理的欲求」への執着に共感できるから鬼滅の刃はヒットしたという結論はちょっと言い過ぎですよね(笑)
というか、僕はもっと本質的な心の問題が鬼滅のヒットには関係していると思っていて、ここまでの話はそのおぜん立てとしてお話させていただいものでした。
そして、その本質的な心の問題を説明するために、次は「呪術廻戦」の内容に一旦触れておきたいと思います。
呪術廻戦に見る「人間に眠る負の感情」
さて、それでは簡単に呪術廻戦のポイントをおさらいしましょう。
呪術廻戦は、主人公の虎杖悠仁(いたどりゆうじ)が呪術師として「呪術」という力を使い、人を襲い人間界に危害を加える呪霊と戦う漫画です。
この物語で虎杖は、「呪いの王」である両面宿儺(りょうめんすくな)を自分の内側に宿しており、「宿儺の器」という形で、敵の総大将である存在を自分の中にひそませています。
基本的には主導権は虎杖にあり、通常時は宿儺は虎杖のなかで大人しくしているのですが、宿儺は自分の完全復活を望んでいて、そのために虎杖を利用しようと虎視眈々とその機会を狙っており、実際に宿儺に支配を握られることもあります。
虎杖は宿儺に乗っ取られると、自我が消失し、肉体を宿儺に支配されてしまいます。
一時的とはいえ虎杖から肉体の主導権をもぎ取ったときの宿儺は、「呪いの王」として圧倒的なパワーを使いやりたい放題です。
もし、虎杖が宿儺を抑え込むことが全くできなくなり宿儺が完全復活しようものなら、その無敵とも言える呪いの力で人間界を壊滅させる可能性をはらんでいます。
このような、全ての呪霊の頂点に君臨する破壊の象徴とも言える宿儺と、呪術師として呪霊と戦う主人公の虎杖の両者のせめぎ合いが、この漫画の見どころの一つでありメインテーマと言えると思います。
そして、この漫画の背景にある基本的な設定が、「すべての呪霊は人間の負の感情から生まれている」というものです。
つまり、「呪いの王」である宿儺は、「人間の負の感情の王」とも解釈できるのです。
したがって、主人公の虎杖が内に宿しているものは、人間がもっているネガティブな気持ちが凝縮した結晶とも言えます。
そして、この「負の感情を内に秘めている」という部分が大勢に人々の共通する内容であり、また多くの人が無意識下でこの漫画に共感している部分なのではないでしょうか。
鬼舞辻と宿儺の共通点
さて、『鬼滅の刃』では恐怖心に支配される話をし、『呪術廻戦』では内に秘めている負の感情の話をしました。
その上で触れておきたいのが、僕たち人間は対立する二つの側面をもっているということです。
電子書籍『マズローが教えてくれる健康な心のつくりかた』にも書きましたが、マズローは僕たち人間は心の中に対称的な両価性をもっていると述べています。
「変化したい!」という気持ちと「このままでいたい!」という気持ちの対立や、「特別な存在になりたい!」という欲求と「みんなと同じでいたい」という欲求のせめぎ合いなどがその一例です。
あるいは、「自分のために!」という利己心と「他者のために!」という利他心の両方が内在してもいます。
もしくは、「理性と感情」や「アタマとココロ」が相反して葛藤することもありますよね。
「こうしたい!でも、そうすべきではない!」と頭と心が戦ったり、「行動したいけど一歩踏み出すのが怖い!」といった経験などは、誰しもにあると思います。
マズローはこれらの葛藤の背景にあるものを「両価性」と呼んでいました。
そして、自分で意識するしないに関わらず、僕たちはこのような葛藤を避けるが故に、一方の要素の抑圧し奥の方に押し込める傾向があります。
しかし、マズローも話しているように、その抑圧された感情や欲求は完全に消え去ることはありません。
戦いに負けた側は、自分の奥底の部分でずっとくすぶり続けています。
そして、表に出てくる機会を待っているのです。
したがって、たとえば自分でも理解できない言動を咄嗟にしてしまったり、後で冷静になって後悔する行動を何故かすることの多い人は、この抑圧されたものが表に噴き出しているにすぎないんですね。
一方で、これらの葛藤とちゃんと向き合い、対立するもの同士をしっかりと調和し統合できている人はこのような現象は起こらないということも、電子書籍では説明しています。
つまり、このことも踏まえて言えることは、僕たちは誰しもが自分の中に「鬼舞辻」や「宿儺」がいるということです。
自分の中に潜む恐怖心に支配され恐れに従うことは、まさに自分の中の鬼舞辻にコントロールされていると言えます。
同様に、自分の中のネガティブが感情とちゃんと向き合わずに押し殺すことは、暴走する宿儺をずっと秘め続けているということです。
要は、「人の恐怖心の象徴」とも言える鬼舞辻と、「人の負の感情の象徴」とも言える宿儺は、僕たちが無意識下に押し込めている心の一面そのものであり、二つの漫画はこのことを見事に描写しているのです。
言い換えれば、鬼舞辻や宿儺を通して多くの人々が自分の中にある奥の方に押しやった感情や欲求を、知らず知らずのうちに再確認しているとも言えると思います。
つまり、普段は意識することもなくなったけれど心のどこかで引っかかっているまだ消化しきれていないものを、鬼舞辻や宿儺に照らし合わせることで読者は感知しているのではないでしょうか。
僕たちは、忘れたフリをしていた抑圧した感情や欲求と向き合う機会を無意識下で探していて、心のどこかではそれらとしっかり直面する必要性に気づいているのです。
これを違った角度で捉えれば、『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』は僕たちにそのことを思い出す機会を提供してくれているような気がします。
自分の内に秘めた都合の悪いものとしっかりと向き合わなければ、本当に自分が望む理想的な人生を歩むことはできません。
そして実際、マズローが「真に健康な心の持ち主」とした人々は、人間なら誰しもに内在している鬼舞辻や宿儺を、見て見ぬフリをすることなく真正面から受け容れ、それらとしっかり調和できているのです。
言い換えれば、健康な心とは、鬼舞辻や宿儺は敵ではなく自分の望ましい人生を共に歩むためのパートナーとして迎え入れているということです。
漫画を読んだことがあれば、自分が鬼舞辻や宿儺と手を取り合ってダンスを踊っているイメージを実際に頭の中で想像してみるといいかもしれませんね(笑)
ヒットする漫画はなぜヒットするのか?
最後のまとめに少しだけ余談を。
ヒットする漫画というは、その時代の子どもたちの心模様の反映しているという意見があります。
あるいは、子どもが好む漫画のメッセージ性を正しく読み解けば、次世代の風向きを予測することができるという見方もあるようです。
しかし、僕は個人的には、漫画やアニメがヒットする理由なんてどこまでいっても基本こじつけだと思っていて、結局は全部結果論だよねというのが正直な感想です。
したがって、『鬼滅の刃』と『呪術廻戦』のここまでの解釈も、あくまでそう考えてみると面白いよねというだけの話ですので悪しからず。
いずれにしろ、こういった視点で流行っている漫画やアニメに触れてみると、今までとは違ったメッセージをその作品から見いだせると思います。
大切なのは、ちゃんと自分なりの視点でその作品と触れ合い、理性と感性の両方の側面でそれを味わうことなのではないでしょうか。