自己実現という言葉自体はかなり有名ですが、日本においてこの言葉は、もともとビジネスの現場から広まったものだというのはご存じでしょうか?
したがって、一般的な自己実現の説明は、どうも「仕事」や「職場」という側面における話が多くなりがちです。
しかし、マズローが語っていた自己実現は、必ずしも仕事に限った話ではなく、もっと広がりのある概念なんですよね。
詳しくは後述しますが、実際マズローは家庭や育児という場における自己実現についてもちゃんと語ってくれています。
ということで、今回はのコラムでは、仕事における自己実現はもちろん、家事や育児における自己実現も含め、知る人ぞ知る自己実現の「女性的な側面」についてまとめてみました。
もくじ
1.自己実現した女性の代表例
さて、まず最初は「自己実現とは何か?」ということについて、簡単におさらいしておきたいと思います。
冒頭でも軽く触れましたが、マズローの語る自己実現は本当に奥が深く幅広いメッセージ性をもっているので、それを一言で説明するのはとても難しいというのが正直なところ。
そんな前提もありつつ、強いて「自己実現とは?」を一言で言うなら、それは「ありのままの自分を思う存分謳歌する」ということだと言えます。
つまり、それは必ずしも高い目標を設定しそれを達成することでもなければ、社会的に成功することでもありません。
詳しくはこちらの別のコラムにまとめているので後でお読みいただたければと思うのですが、自己実現とは、もともと自分の内側に眠っている可能性を開花させ、それを世界とシェアしていくことなんです。
そういった意味では、自己実現とは仕事やビジネスの現場に限った話ではないというのは当たり前のことと言えそうですよね。
なぜなら、自分に内在している本来の可能性を発揮する場は、家庭の場合だってあるからです。
もしくは、趣味やプライベートにおいて自己実現を果たすことも当然ながらあります。
さらに言えば、自己実現を生きている人にとっては仕事は遊びと同然のものになるので、こうなるともはや、仕事で自己実現しているのか、遊ぶことを通して自己実現を果たしているのかの区別はなくなります。
「遊ぶように仕事をする」と聞くと、もしかしたら「不謹慎だ!不真面目だ!軽率だ!」と思ったり、身勝手さのようなものを感じるかもしれませんが、真の意味で自己実現を生きている人は、いわゆる「労働」という観念から自由になっていて、自己犠牲を伴うことなく仕事をすることで社会と循環できています。
したがって、彼ら彼女たちにとっては、もはや「仕事」と「プライベート」の境界線はなく、両者が統合され調和できているんですよね。
そのような意味においても、自己実現は仕事に限った話ではないという事が言えるんです。
そして、マズローは実際そのよういった形で見事に自己実現を果たしている実例として一人の女性を挙げてくれていました。
その女性の名は、「ジェーン・アダムズ」です。
「誰このおばさん?」と思われましたかね(笑)
ちなみに、若い頃はこんなお嬢さんです。
ジェーン・アダムズは日本ではそれほど知名度が高くないと思うので、ここで彼女について簡単にご紹介しましょう。
ジェーン・アダムズは、1860年生まれのアメリカ人で、社会事業家・平和運動家・女性運動家であり、ソーシャルワークの先駆者と呼ばれている人物です。
また、彼女は社会福祉におけるその偉大な功績をたたえられ、1931年に米国人女性として初めてノーベル平和賞を受賞した人物でもあります。
もっとも、そのような社会活動と功績の背景には、彼女自身の決して恵まれていたとは言えない幼少期の生い立ちが関係しています。
アメリカのイリノイ州で生まれたジェーンは、彼女が二歳のときにお母さんを亡くしてしまいます。
なおかつ、彼女自身も幼い頃から身体がとても弱く、四歳のときに「脊椎カリエス」という病気になり、腰が曲がってしまいます。
そして、そのような自分自身の経験によって、彼女は人々の「つらい」という気持ちを繊細に感じ取るようになり、また、それだけでなく「困っている人を助けたい」という思いも強く抱くようになるのです。
それと同時に、彼女には「大人になったら大きな家を買って、困っている人たちと一緒に暮らそう」という目標もできました。
そして、実際ジェーンは大人になってから、シカゴのスラム街に地域の労働階級移民のためのサービスを提供する、世界最大規模の社会福祉センター「ハル・ハウス」を創設し、その夢を実現するのです。
その後も、彼女は多くの社会問題に取り組み、ときには危険人物扱いされながらも社会福祉において様々な功績を残し続け、その天寿をまっとうしました。
マズローは、特に自己実現している具体的な人物の代表例を九名挙げていたのですが、ジェーンはその九人の内の一人でした。
もっとも、ジェーンの事例はとてもスケール感の大きい話ではあるものの、マズローの語る自己実現においては、目に見える結果や業績だけで自己実現を果たしたか否かということは言えません。
むしろ、自己実現を生きる上で大切なのは「心の在りよう」や「ものの見方・解釈の仕方」や「大事にしている価値観」、あるいは「世界と自分との関係性」、さらに言えば「自分と自分自身の関係性」といったような、もっと内面的な要素が大事になってきます。
このような意味では、自分自身の社会的な影響力が大きいか小さいかという面は、それほど重要ではないのですね。
また、自己実現は「具体的に何をしているか?」という内容も特定の物事に限定されてはいません。
したがって、社会貢献度が高いかどうかや、大勢に人々の役に立てているかということは本質体には関係性ないんですよね。
つまり、冒頭でも触れましたが、ありのままの自分を最もフィットする形で表現できていれば、それは紛れもなく自己実現なのです。
もっとも、真の意味での自己実現を体現している人は、自分以外の人に何か与えることがナチュラルにできる人でもあります。
マズローはこのことを、「利他と利己の統合」という表現で言い表しています。
つまり、真の自己実現においては、「自分のため」と「相手のため」が対立・矛盾することなく、見事に調和しているのです。
また、このことからも、自己実現が必ずしも仕事に限定されているのでないという事と、真の自己実現においては仕事と遊びが同一化しているということが分かると思います。
仕事のもつ一つの側面が「誰かの役に立つ」ことである一方で、「誰かの役に立つ」ことは金銭のやり取りを介さなくとももちろん出来ることだからですね。
その象徴として分かりやすい代表例の一人だったのが、ジェーン・アダムスという女性であったと言えるでしょう。
2.自己実現研究のキッカケとなった女性
さて、ジェーン・アダムスの話を通して自己実現への理解を更に深められたところで、続いてはマズローが自己実現の研究をすることになったキッカケを提供したと言える「とある女性」について紐解いてみましょう。
これはあまり知られていないことなのですが、マズローが自己実現に関する研究をするようになった発端は、マズローが敬愛する二人の教師への興味から始まりました。
マズローが言うにはその二人の教師は、『ふつうの人間ではなく、人間以上の何ものかである感じ』がする存在であり、このような二名を理解するためには自身のそれまでの心理学の勉強がまったく役に立たなかったとまで述べています。
それと同時に、マズローはこの二名を『愛し、尊敬し、賞賛して』おり、『人間的にとても素晴らしい』と絶賛しています。
そして、マズローはこの二名のもつ魅力をなんとか理解したいと考えるようになり、その過程で自己実現の研究に着手することになるのです。
そんな、自己実現のルーツとも言える二名の内の一人が、「ルース・ベネディクト」という女性です。
ここでは彼女について簡単にだけ紹介すると、ルース・ベネディクトは、1887年生まれのアメリカ人で職業は文化人類学者です。
なお、実はベネディクトは日本文化にも精通している人物で、彼女は多くの西洋人が「内面的な罪の意識」が行動の基準になっているという考えのもと西洋文化を「罪の文化」と名付ける一方で、日本人は「周囲に対する恥の意識」が行動の基準になっていることから日本文化を「恥の文化」と表現しました。
ちなみに、彼女が書いた『菊と刀』という本は、和訳され日本においても複数の出版社から出版されていますね。
また、実は彼女は、今では多くの日本人がその名を知っている「シナジー」という概念を初めて提唱した人物でもあります。
念のために触れておくと、「シナジー」とはいわゆる「相乗効果」のことで、マズローの著作の中でもこの単語はたびたび登場しています。
というかむしろ、マズローの語る自己実現のもつ代表的なエッセンスの一つがこの「シナジー」であり、それこそここまで何度か登場していた「統合」や「調和」という単語は、まさにシナジーを理解するための大事なキーワードだったりします。
いずれにしろ、ルースベネディクトも含めた二名の教師への興味と、彼女たちの魅力を何とかして解明したいという好奇心から始まったのが自己実現に関する研究なのです。
3.家庭における自己実現とは?
さてさて、そのような経緯を経て始められた自己実現の研究ですが、その調査対象となった人々の数は非常に膨大になりました。
自己実現についてあらゆる角度から研究するために、マズローは可能な限り様々な人々と関り、彼らが何を考え何を感じ、どのような行動をし、心理的にはどのような状態なのかといったことについて徹底的に調査・分析します。
そして、その過程でマズローはとある主婦と出会い、その主婦のなかにも自己実現を見出すのです。
言い換えれば、マズローはその主婦を「自己実現的な主婦」であると判断したということですね。
もう少し具体的に話すと、マズローの語る自己実現においては「創造性」というキーワードがあるのですが、マズローはその主婦の生活スタイルや趣味嗜好のなかに、自己実現を生きる人に共通して見られる特有の創造性を見つけ出したのです。
実際マズローは、『完全なる人間』という著作の中で、自己実現的な創造性を輝かせていた主婦の作る料理や、食器や雑貨の選び方に覚えた感銘を、次のようないくつかの表現で語っています。
『たとえば、無教育で貧しく、終日家事に追いまわされている母親である一婦人を例にとると、彼女はこれらの慣例的な意味での創造的なことは、なにもしていなかった。にもかかわらず、素晴しい料理人であり、母親であり、妻であり、主婦なのである。わずかのお金で、その家はともかくもつねに小綺麗であった。彼女は完全なおかみさんなのである。』
『彼女の作る食事は御馳走である。彼女のリンネル、銀食器、ガラス食器、せともの、家具に対する好みは、間違いがない。彼女はこれらすべての領域で、独創的で、斬新で、器用で、思いもよらないもので、 発明的であった。』
『わたくしはまさに彼女を、創造的と呼ばざるを得なかったのである。わたくしは、彼女や彼女に似た人びとから、 一流のスープは二流の絵画よりも創造的であり、 また一般に、料理や育児や家事が創造的であり得る一方、詩が必ずしも創造的でなければならないというわけでなく、非創造的で もあり得るということを知ったのである。』
つまり、マズローはいわゆる専業主婦としてはたらく女性の家事や育児になかに、自己実現に含まれる創造性を見出していたのです。
それだけでなく、そのような主婦の作るスープが、ヘタな芸術家が描く絵画よりもよっぽど創造性に満ちているとさえ言っていますね。
言い換えれば、この主婦というのは、自身の家事を通して自分の内に秘める可能性や個性を創造的に発揮しているということです。
このような意味でも、自己実現は必ずしも仕事に限ったことではないということもお分かりいただけるのではないでしょうか。
むしろ、場合によっては、仕事において非常に優れた結果を出せるものの、それが嫌々の姿勢だったり歪んだ自己犠牲によって担保されていたり自分を押し殺すことで労働しているビジネスマンよりも、家族への愛情と家事をできることへ喜びで豊かな心持ちで日々を過ごせている主婦の方が、より自己実現的な人生を歩めているとも言えるでしょう。
つまり、自己実現とは、仕事で発揮するか家事を通し実現するかといった線引きはまったく必要ないのですね。
何をその土台に据えるかは、それこそ自分にもともと内在している本質的なオリジナリティによるものなのです。
だからかこそ、自分自身のことをちゃんと知り、世間の目や他者の批判に臆することなく、あるがままの自己を表に出しきることが大切になってきます。
それがいまの社会において高く評価されるか否かや一般的・常識的かどうかといったことは、一切関係ありません。
ちなみに、ここで「育児」と自己実現の関係性についても少し触れておきましょう。
マズローは、自己実現における重要ポイントの一つに「子どもらしい天真爛漫な無邪気さ」を挙げていたのですが、それに伴い子どもという存在にも非常に魅力を感じていて、子供たちの在り方を自己実現の参考にすることも多々ありました。
そのような意味でも、育児というのは僕たちの自己実現を促す一因になるものなのです。
実際、これはあまり知られていませんが、マズローは現代教育が子供の可能性の芽を摘み取る内容になっていることについて問題視をしていて、それゆえに「本当に子どもにとって望ましい教育とはどのような教育か?」という事についても、心理学者として鋭くも温かい自論を持っていました。
ここでは残念ながらその詳細は割愛させていただきますが、このマズロー独自の「教育論」とも言うべき内容に触れることでも、自己実現への理解をより一層深めることができますよ。
いずれにしろ、その舞台となる場が仕事であれ家事であれ育児であれ、自分の本心から溢れ出るものを通して唯一無二の自分だけの創造性を余すことなく発揮し、その豊かさを周りの人々と共有しているのであれば、それは紛れもなく自己実現なのです。
4.女性らしい自己実現とは?
さて、性別によって何かを分けることは近年どんどんなくなっていますが、それも含めて、ここではこれまでの内容とは少し趣の異なった話をしてみたいと思います。
なお、ここでの内容は、マズロー自身が語ったものでなく、マズロー研究家である僕がマズロー以外の他の要素と絡めて勝手に持っている自論なので、その点はご承知おきいただければと思います。
さて、ここで突然ですが、僕たちが普段からよく目にする映画は、ある種の必勝パターン的なストーリーで構成されているものが多いということはご存知でしょうか?
これは、いわゆる「王道」的なストーリーとも言えます。
そして、ハリウッド映画はもちろん、あらゆる人気映画や大ヒットする映画のほとんどが、この「王道ストーリー」によって物語の全体像が作られています。
言い換えれば、多くの人から支持される物語の構成は概ね決まっていて、それに忠実に沿ってストーリーを展開してくことで、その映画はヒット作になるということですね。
具体的な映画の名前で言うと、『スターウォーズ』『ロード・オブ・ザ・リング』『ハリーポッター』『マトリックス』『ロッキー』などが、この王道ストーリーによって作られている映画です。
そして、これらの作品に共通してみられる王道ストーリーの名前は、「ヒーローズ・ジャーニー」(英雄の旅)と呼ばれています。
ちなみに、このヒーローズ・ジャーニーを最初に発見したのは、世界中の神話を研究しているジョゼフ・キャンベルという人物で、彼は数多のストーリーを研究していく中で時代を超えて人々に受け入れられている物語に共通する法則に気付き、それをヒーローズ・ジャーニーを名付けました。
そのヒーローズ・ジャーニーは、以下の12個の流れに沿って、順次話が進んでいきます。(『英雄の旅』参照)
●ステップ1:平凡な日常
ストーリーはまず、何気ない普段の日常的なシーンから始まります。
このタイミングではまだ事件も問題も何も起きていない状態で、いつも通りの平凡な日常生活を過ごしている主人公が描かれています。
その日常が望ましいとは言えないパターンもありますが、いずれにしろその日常を送っていれば安全であるという状況です。
ハリー・ポッターで言えば、ハリーが親戚の家で居候している映画の序盤シーンですね。
●ステップ2:冒険への誘い
この段階で、主人公は新たな旅立ちへの誘いが訪れます。
もっとも、ほとんどの物語ではそれは主人公自身が望んで起こるものではなく、ある種の強制的な要因がキッカケになります。
ハリーポッターで言えば、ハグリッドがハリーを突然迎えにきて、ホグワーツへの入学を誘うシーンです。
●ステップ3:誘いの拒絶
この段階で、主人公は冒険への誘いに対して一度拒否反応を示すというのがポイントです。
すんなりとその誘いにはのらず、新しい世界に対して懐疑的であったり、または恐怖を感じているため、冒険へ踏み出すことを拒否します。
ハリーがハグリッドからの誘いに対して自分に魔法が使えることを信じず、ハグリッドの話自体をまだ疑っている段階ですね。
●ステップ4:師との出会い
この段階で、冒険の旅における師匠との出会いが訪れます。
師匠は旅のガイドであり、主人公に対して必要な助言をし、前へと進むためのアドバイスを与えてくれる存在です。
ハリーポッターでは、ホグワーツのダンブルドアがこの存在に該当するでしょう。
●ステップ5:第一関門
主人公は新たなる世界への旅立ちを受け入れ、物語における最初の関門と出会います。
なお、この関門を一度越えると日常に引き戻すこともうできないという分かれ道の象徴でもあります。
ハリーが親戚の家を出て列車に乗り、ホグワーツという魔法の世界へと足を踏み進めていく段階ですね。
●ステップ6:試練・仲間・宿敵との出会い
新たなる世界に足を踏み入れたことで、主人公はたくさんの試練と遭遇します。
そして、その試練を乗り越える過程で、仲間や宿敵と出会っています。
これは、ハリーが悪い魔法使いに立ち向かったり、大蛇と戦ったりなど様々な試練を乗り越えるステップですね。
●ステップ7:準備
主人公はこれまでで一番危険な状況に立ち向かうために準備をします。
この危険を乗り越えないと冒険のゴールには辿り着けないので、決して避けては通れません。
これは、ハリーがヴォルデモートとの戦いへ向けて作戦を立て色々な準備をする場面に相当します。
●ステップ8:最大の挑戦
ここがある種のクライマックスとも言える物語のピークであり、最も危険な状況と向き合う段階です。
主人公は自分の死と向き合ったり、大切な人との別れの選択を迫られたり、最大の難所を訪れたり、過去の葛藤や苦悩の大本となっている物事を乗り越えるようなことに挑戦します。
ハリーポッターでは、ヴォルデモートと実際に戦う場面が当てまりますね。
●ステップ9:報酬・宝
最大の挑戦を乗り越えた主人公は、その報酬を手に入れます。
その具体的な報酬は物語によって様々ですが、最大のチャレンジを乗り越えたからこそ手に入れることができる宝をゲットします。
これは、ヴォルデモートを撃破することで仲間を救い、世界の平和を守り、ハリー自身も成長するということがこの報酬に当たりますね。
●ステップ10:帰路
前のステップで手に入れた報酬を持って、帰路へと向かいます。
しかし、そこにはまだ危険が残っているという状況で、油断はできません。
●ステップ11:復活
主人公が危険な場所から戻ってきて、自分が成長したり以前の自分とは全く違う自分に生まれ変わっています。
物語によっては最大の危機の中で一度死に直面し、死んでしまった主人公や死に際の主人公が息を吹き返すという描写で描かれることもあります。
ハリーが自分の死を一度体験し、そこから復活する描写がこれに相当します。
●ステップ12:宝を持って日常への帰還
最終的に、主人公は元の日常世界に戻っていきます。
もっとも、目に見える部分では以前と同様の世界ですが、主人公は冒険をしたことで、多くの宝や成長を得ており、その意味では冒険以前よりも高い次元にいます。
ということで、以上が、ヒーローズ・ジャーニーにおける12のステップになります。
そして、これはある意味では非常に「男性的」な物語です。
「龍退治」的な側面が強く、それこそ少年ジャンプにおける「友情・努力・勝利」という価値観が全面に出ている物語とも言えますね。
あるいは、ある種の「山登り」的なストーリーとも言えるかもしれません。
そして実は、この「王道的」なヒーローズ・ジャーニーとはかなり世界観の異なる、まったく新しいタイプのストーリーが近年密かに注目されているんです。
そして何を隠そう、それこそが自己実現の一般的にはあまり語られない「女性」的な側面なのです。
その、知る人ぞ知るその新しいストーリーとは、「ヴァージンズ・プロミス」と呼ばれる物語です。
5.ヴァージンズ・プロミスを生きる
この「ヴァージンズ・プロミス」というストーリーは、キム・ハドソンさんという方が『新しい主人公の作り方 ─アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』という書籍で提案されているものです。
下記はこの書籍からの引用ですが、そのストーリーの流れは、以下の13ステップで構成されています。
【ヴァージンズ・プロミスの流れ】
第一幕
① 依存の世界 :善良で正しい世界
② 服従の代償 :自分が出せない空気
③ 輝くチャンス :本心を表現する
④ 衣装を着る :魔法が起きる?
第二幕
⑤ 秘密の世界 :2つの世界を行ったり来たり
⑥ 適応不能になる :混乱と無謀な行動
⑦ 輝きの発覚 :現実に直面・周囲の視線
⑧ 枷を手放す :決断して踏み出す
⑨ 王国の混乱 :世界がぎくしゃくする
第三幕
⑩ 荒野をさまよう :迷い、信念が試される
⑪ 光の選択 :クライマックスと宣言
⑫ 秩序の再構築 :レスキュー
⑬ 輝く王国 :新しい生き方がはじまる
なお、このストーリーに当てはまる映画は、日本映画で言えば『フラガール』や『おくりびと』、海外の映画だと『プリティ・ウーマン』や『アバウト・ア・ボーイ』や『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』などがあります。
これらの映画ももちろん素敵な作品なのですが、今回はこのストーリーを把握するために、ヴァージンズ・プロミスが非常によく表現されている『リトル・ダンサー』という映画をピックアップしたいと思います。
リトル・ダンサーのあらすじをざっくりと言うと、主人公はビリーという少年で、ビリーは母親を亡くし炭鉱で働いている父と兄と暮らしており、その父親からは「男らしくなれ!」と教育を受けボクシング教室に嫌々ながら通わされています。
殴り合いのボクシングなどは自分に合っていないと思いつつも、ビリーは父親の言いなりとなってしまっていて、それはまるで自分ではない誰かの人生を生きているようなものです。
たしかに父親に服従していれば安全ではあるのですが、それは自分らしいとはとても言い難い状態…。
そんな折、ビリーはあるタイミングで偶然バレエ教室のレッスンを目にするのです。
それはまるで、ビリーにとってのあたらしい秘密の世界の幕開けです。
しかし、ビリーは恐怖心から、父親にボクシングを辞めバレエ教室に通うことを提案できません。
そして、彼は家族の目を盗んで、こっそりとバレエの練習をするようになるのです。
最初はそのことがばれずに済んでいるのですが、バレエに没頭するあまりビリーは次第にそれまでの服従していた世界に適応できなくなります。
その結果、ビリーの内に秘めた輝きが露見してしまい、バレエを踊っているのを父親に見つかってしまうのです。
もちろん、父親は激怒しビリーに失望します。
しかし、ビリーはそこでの葛藤や苦悩を乗り越え、これまでの制限を手放し、最終的には「自分の人生を生きる」という光の選択をして、自らの手で新しい輝く王国を創造するのです。
これが、リトルダンサーにおけるヴァージンズ的なストーリーであり、ヒーローズ・ジャーニーとは違うまったく新しいタイプの物語です。
そして、これらのストーリーの比較は、実は自己実現にも言えることなんです。
どういうことかと言うと、これまで多くの人々を魅了してきた従来型の「ヒーローズ・ジャーニー」は、「何かを成すこと(DO)」に重きを置いているという特徴があります。
それは、何かをすることで、高い目標を達成したり、偉大な栄光を手にするというものです。
言い換えれば、自分の外側の世界を変えようとする試みであり、問題は自己の外部にありそれを変化させる必要があるというスタンスで、その世界に果敢に挑戦していくことで報酬をゲットするというストーリーです。
一方で、ヴァージン・プロミスは、「どのような存在であるか(BE)」に重心を置いているものです。
それは、自分の内面を探究する物語。
何かを外側から取り入れるのではなく、もともと自分の内側に眠っている可能性を解放していくストーリーです。
その過程で、依存や安全を手放し、自分のオリジナリティにもとづいた創造性を発揮し、世界と調和していくプロセスです。
それは、ある種の「女性的」な感性と親和性が高い物語とも言えます。
ヒーローズ・ジャーニーとヴァージンズ・プロミスは、こういった意味において対照的な世界観になっているんです。
そして、自己実現への道のりは、ヒーローズ的な道のりとヴァージンズ的な道のりの両方があると僕は思っています。
これは、どちらが良くてどちらが悪い、あるいはどちらが正しくてどちらが間違いというものでもありません。
どちらが自分にフィットするかは、人それぞれでだと思います。
あるいは、人生のあるタイミングではヒーローズ的な自己実現を進め、また別のタイミングにおいてはヴァージンズ的な自己実現を歩むということもあるでしょう。
つまり、どちらか一方に固執することなく、その時の自分によりしっくりくる世界観で、自己実現を生きることが大事なのだと思います。
とは言え、一般的に語られる自己実現は、ヒーローズ的な側面がかなり強調されてるのも事実です。
したがって、これまで自己実現という言葉がどこが自分事に感じられなかったり、見聞きする内容を自分が生きているリアルな人生に落とし込めないような印象をもってしまった方もいるかもしれません。
そんなとき、このヴァージンズ・プロミス的な視点をもっていると、これまで抱いていた自己実現のイメージとは違った形での新しい自分自身にとっての自己実現のすがたが見えてくるのではないかなと僕は思っています。
より内面的で、より存在的な、「何をするか?」よりも「どう在るか?」という点にポイントを置いた自己実現のほうが自分には合っていると感じる人もきっと少なくない気がするんですよね。
むしろ、マズローの語る自己実現への個人的な印象としては、日本語訳されているすべてのマズロー著作を読む限り、ややヴァージンズ的な要素が濃い気がしていたりもします。
というもの、マズローの語る自己実現やそれも含めたマズロー心理学の根底には、「受容」というキーワードが非常に重要な位置を占め、なおかつ「ありままを受け容れる」というのが忘れてはならない大切なスタンスだからです。
そういった意味でも、「仕事」「家事」「育児」という線引き自体に必要以上に縛られることなく、それらを超えたもっと深い部分での自己実現を生きることが何よりも大切なのではないでしょうか。
ヴァージンズ・プロミスは、そんなことへの理解を深めてくれる新しい隠れた視点だと思います。
ぜひ、このような広い視野で自分自身を俯瞰し、周りの意見に惑わされることなく、本当に自分にフィットする形での自己実現を見つけてみて下さいね。