
あゆの歌う「Voyage」という曲は、僕たちが自分らしい幸福な人生を歩もうとしたときに忘れがちな、とある大切なポイントを思い出させてくれる曲だと思います。
今回は、多くの人が陥りがちな「本当の幸福とは何か?」にまつわるとある盲点という切り口で、この曲の歌詞に眠る秘密を探ってみましょう。

【歌詞引用】
浜崎あゆみ「Voyage」
作詞:ayumi hamasaki
作曲:CREA+D・A・I
「Voyage」という曲は、このような歌い出しで始まりますね。
僕達は幸せになるため
この旅路を行くんだ
ほら笑顔がとても似合う
僕たちは、みな「幸せになりたい!」という気持ちをもっています。
「お金が欲しい!」も「結婚したい!」も、結局は幸せになるためだったりします。
「仕事で成功したい!」や「理想の自分に近づきたい!」なども、そうなることで幸せになれると思うからです。
「好きなことをしたい!」「やりたいことをしたい!」「自由が欲しい!」といったことも、それが自分の幸せに結びついているからですよね。
そういった意味では、「幸せになるために生きている」というのは、あらゆる人にとっての真実なのではないでしょうか。
幸せになるために、人生という旅を歩んでいるといっても過言ではないでしょう。
しかし、僕たちは自分が手に入れた幸せを、スグに「当然のこと」にしてしまうのが得意です(笑)
「ありがとう」の反対は「当たり前」とも言うように、貴重で価値の高かった「有り難い」ものごとも、それに慣れてしまえばありがたいことではなくなり、感謝の気持ちも消えてしまいます。
そうして、「もっと!もっと!」と更なる幸せを求めて旅を続けます。
色褪せる事なく蘇る
儚く美しき日々よ
眩しい海焦がれた季節も
雪の舞い降りた季節も
いつだって振り向けば
あなたがいた
多くの人は、幸せになりたくて、努力したり我慢したりします。
そうして、過去の思い出は色あせていき、一度手にした幸せにはそっぽを向き、今はまだ手にしていない別の幸せを探そうとします。
しかし、本当の幸せ者というのは、いまここにある幸せをないがしろにすることはしません。
すでに経験している幸せを慈しむ気持ちを忘れないのですね。
だからこそ、彼らはいつでも笑みを絶やすことなく、自分が笑顔になれる物事をいまここにあるものからちゃんと受け取っています。
ところで、とある小説には、幸福の秘密に関するこんな逸話が書かれています。
幸福の秘密を知る賢者の住む宮殿に訪れた少年が、幸せに生き続ける秘訣を教えて欲しいとその賢者に尋ねました。
すると、その賢者は忙しいことを理由に、少年に二時間ほど宮殿内をあちこち散歩するように言います。
ただし、賢者はその散歩の間に少年にある条件を付け加えました。
その条件とは、賢者が少年に渡した二滴の油が入ったティースプーンからその油をこぼさないようにしながら宮殿内を歩き回るというものです。
少年はそれを承諾し、スプーンからは片時も目を離さずに二時間かけて宮殿中を歩き回りました。
そして、二時間たって最初の場所に戻ってきた少年に、賢者はこう問いかけます。
「さて、わしの食堂の壁にかけてあったペルシャ製の綺麗なつづれ錦を見たかね?熟練の庭師が十年かけて作った素晴らしい庭園を見たかね?わしの図書館にあった美しい羊皮紙には気付いたかね?」
少年は当惑し、何も見ていなかったことを正直に告げると、賢者は「その人の家を知らずにその人を信用してはならない」と言って、もう一度宮殿内を散策するよう少年に言います。
少年はホッと胸をなでおろし、スプーンをもって再度宮殿中を歩き回りました。
今度は、ひとつひとつの壁や床や天井、あらゆる装飾品・美術品・骨董品、庭園や図書館などもしっかりと見て、賢者の趣味の良さをしっかり実感することができました。
そして、またもう一度賢者のもとに戻り、自分が見たことを詳しく話しました。
賢者はその話をふむふむと頷きながら聞き、その終わりで少年にこう尋ねました。
「さて、わしがお前に預けた油はどこにあるのかね?」
少年はハッとし、自分の持っていたスプーンに目をやると、そこにあったはずの油は消え去っていました。
「では、たった一つだけ君に教えてあげよう」と賢者は口を開きます。
「幸運の秘密とは、世界の全てのすばらしさを味わい、しかも、スプーンの油を忘れないことだよ」
これは、『アルケミスト』という小説に書かれている一節ですが、「幸せ」の本当の姿を語ってくれている、とても本質をついた話だと思います。
僕達は幸せになるため
この旅路を行く
誰も皆癒えぬ傷を連れた
旅人なんだろう
ほら笑顔がとても似合う
僕たちは、誰もがみな心に傷を負っています。
その大きさや深さや痛みの感覚は違えど、人生の中で何かしらの傷ついた経験をしています。
それは仕事に関することかもしれませんし、人間関係に関することかもしれません。
あるいは、自分の過去の過ちや、自分の個性や外見にまつわるものという場合もあるでしょう。
傷を負った原因は人それぞれで、中にはその原因となった出来事が何だったのか忘れている場合もあると思います。
いずれにしろ、たとえ記憶からは消えてしまっていたとしても、あるいはその傷がほんの些細なものだったとしても、その経験は僕たちを憶病にしてしまいます。
そうして、自分が傷つかないような選択を、無意識で選ぶようになるのです。
恐怖心から自己防衛をはたらかせて、安全で無難でオーソドックスな道を歩こうとするのですね。
そして大抵の場合、それは自分を歪めることで果たされます。
言い換えれば、自分に嘘をつき、欺くことで、傷つかないようにするのですね。
そのため、自分ではない偽の自分を演じたり、仮面を被り人と関わったり、自分の本音を押し殺して借り物の自分を生きることを選ぶのです。
マズローは、このような状態を「疑似自己」と呼び、自己防衛から自分が本当に成すべきことから逃げることを「ヨナ・コンプレックス」と名付け、これらを「自己実現」という自分らしい人生を生きる生き方とは対照的なものであるとし、警鐘を鳴らしてくれていました。
このような自己実現とは真逆の生き方をし続けることで、僕たちは自分の今いる場所も目指すべき方向も分からない迷子になってしまいます。
何度道に迷ったのだろう
その度にあたたかい手を
差しのべてくれたのも
あなたでした
恐らく、多くの場合この歌詞における「あなた」というのは、自分の愛する人や、家族・恋人・パートナーなどを意味していますよね。
しかし、ここではあえて少し違った見方をしてみたいと思います。
マズロー心理学における心の健康という側面から見た場合のこの「あなた」は、すなわち「本当の自分」の事と捉えることができます。
あるいは、ここで言う「あなた」というのは、「自分の内なる声」とも解釈することができるでしょう。
いずれにしろ、恐怖心から自分を見失い迷子になってしまったとしても、実は本当の自分自身というのは、ずっと傍にいてくれていた存在です。
どれだけないがしろに扱われていても、その存在をなかったことにされても、声をかけても常にガン無視されていたとしても、長いあいだ部屋の隅の奥のほうに押しやられていたとしても、それは片時も離れず自分の傍でずっとずっと待ってくれていました。
さきほど触れた「幸福にまつわる賢者の話」は、僕たちがややもするとスグに零れ落としてしまう、スプーンの中身である本当の自分を忘れないことの大切さを伝えてくれているのだと思います。
僕たちは、「自分がいてくれている」という幸せを忘れ、自分の外側にある目に見える豪華さや美しさに翻弄されてしまいがちです。
一方で、自分に固執し自分の幸せしか見ないようになると、世界の豊かに気づくことはできません。
なんなら、世界を歩こうともせずに、その場にとどまり続けることで安全圏に留まろうとすることだってあります。
マズローが「真の意味で健康な心の持ち主」と表現した自己実現を生きている人は、もともとのありのままの自分を見失うこともなければ、それを邪険に扱うこともしません。
なおかつ、そのような人は自分の可能性を閉じることで自分を守ることもせずに、世界中を歩き回り自己実現という旅を謳歌する人です。
すなわち、スプーンの中身を大切にしながらも、伸び伸びとした気持ちと軽やかな足どりで自由に世界を旅することができるということです。
彼らは、自分自身をしっかりと謳歌しているので、その笑顔はこれ以上ないほど彼に似合っている笑顔です。
言うまでもなく、僕たちに似合う笑顔というのは、嘘偽りのない、純粋無垢な、ありのままの自分が笑ったときの笑顔ですよね。
僕達はこの長い旅路の
果てに何を想う
誰も皆愛求め彷徨う
旅人なんだろう
ともに行こう飽きるほどに
自分らしさを最大限に活かし自己実現を生きている人は、真の愛を生きる人でもあります。
愛を求めることと、愛を実際に生きることは似ているようで全然違います。
自分らしい可能性を思う存分発揮することで世界と繋がっている人の愛というのは、依存的な愛や、盲目的な愛や、自己防衛的な愛ではない、真の受容と尊重と感謝を内に包み込んでいる、本質的な愛です。
そのような愛を胸に、彼らは世界と調和することで、周りの人々と豊かさを分かち合いながら、人生という旅路を歩んでいます。
そして、その旅のパートナーは他ならぬ自分自身なのです。
ありのままの自分と共に、その飽くなき探究心から、どこまでもどこまでも歩み続けていくのが自己実現を生きている人です。
僕達はこの長い旅路の
果てに何を想う
誰も皆愛求め彷徨う
旅人なんだろう
ともに行こう飽きるほどに
僕たちは、夢を見ることを恐れます。
夢を見ることで傷つくことが怖いのです。
夢を実現しようとする過程で、孤立したり誰かから非難を浴びることを恐れている場合もあります。
あるいは、描いた夢が実現せずに絶望してしまうことや、自分の限界を知ることや、自信を失ってしまうことが怖いこともあるでしょう。
人によっては、その過程で出会う悲しみや苦しみといった感情を感じることを怖がっていることもあるかもしれません。
もしくは、夢を追いかけることでいま手にしている大切なものを失うことへの恐怖心によって、前に進まない選択をしている可能性もあります。
いずれにしろ、それらの恐怖心から、僕たちは自己卑下や自己否定をすることでその夢を諦める口実を作ります。
「私なんて」「俺は所詮」「どうせ自分は」といったフレーズをたくさん持ちだしてきて、夢から逃げることを自分に説得しようとするのですね。
そうして多くの人が、自分で自分の可能性を閉じ、自分の内側に眠るオリジナルな花を開花させることをしなくなります。
その一方で、自己実現している人というのは、多くの人々が陥るこれらの状態を乗り越え、自分の可能性を開花させる人のことです。
彼らは夢を見る怖さを知りつつも、それをうやむやにしたり見て見ぬフリをすることなく、しっかりとその恐怖と向き合いながら、人生を生きています。
むしろ、その道程すらも楽しみながら、自分を成熟させ、恐怖とすらも手をつなぐことで、自分の自己実現の道を進み続けるのです。
「voyage(ボヤージュ)」というのは、日本語訳すると「航海」という意味になります。
自己実現している人というのは、夢を生きる恐怖をしっかりと内包し、それと健全な関係性を築くことで、大海原を旅する人生を生きています。
彼らは、いま目の前にある幸せをないがしろにすることなく、それらに感謝しながら、更なる幸せに向けて航海し続けることができる人々なんですね。
僕たちは、無い物ねだりの「欠乏欲求」ではなく、あるもの探しから溢れ出す「成長欲求」によってたくましくオールをこぎ続けることで、ありのままの自分と共に人生という航海の旅路を謳歌することができるのでしょう。
あゆの歌う「Voyage」は、そんなことを、壮大かつ力強いメロディに乗せて僕たちに伝えてくれている、本当に素敵な名曲ですね。
※このコラムの内容は、あくまでもマズロー心理学という眼鏡をかけた目で見た個人的な解釈であり、この曲の作り手・歌い手・演者の方々が込めてくれたメッセージの感じ方の一つです。


