講談社から出版されいるブルーピリオドという漫画とマズロー心理学のすり合わせのコラムの第三弾として、今回はブルーピリオドの2巻~5巻に秘められた6つの素敵なセリフのメッセージをマズロー心理学的サングラスをかけて紐解いてみたいと思います。
ちなみに、今回は主人公の八虎ではなく、八虎が美術の世界に足を踏み入れる上でのアリスの白うさぎ的な役目になっていると思われるユカと、スターウォーズで言うところのヨーダやハリーポッターのダンブルドアのような存在とも言えるであろう大葉先生が語る言葉をピックアップしてみました。
1.死ぬってどういうこと?
言うまでもなく、死というものは怖いですよね。
「自分」という感覚が消えてなくなるのは、想像すらできないことです。
なぜなら、想像する自分がいなくなることが死であり、想像する自分がいる限り死ではないからですね。
そういった意味では、死とはある種のマボロシのようなものなのかもしれません。
実際、「いつかは死ぬ」ということは分かっていても、「今日死ぬ」と思って生きることはほとんどないですよね。
「今日が人生最後の日かもしれないよ!」と言われたところで、この言葉を実感をもって捉えることもなければ、ましてや「確かに!」と腹を括って思い切った行動に出ることは難しいと思います。
だからこそ、僕たちは昨日と同じような今日を生きますし、やりたいことは先延ばしにしてしまう傾向があります。
しかし、命がついえるという意味での死ではない、別の死というものは確かに存在しますよね。
肉体的には死んでいないけれど、感覚的には死んでいるような状態は、事実上起こり得る状態です。
このような意味において、「生きている」というよりは「死んでいない」という言い方の方がピッタリくる人生というのは、ある意味では死と同じことだと思います。
「死んだように生きている」という表現は割と見聞きするフレーズですが、このような生を生きている人は自分自身を生きていません。
ではなぜ、こういった死人のような人生を生きることができてしまうのでしょうか?
それは言うまでもなく、他人の人生を生きているからですね。
本当の自分の包み隠し、あるいはその表面に他の異物を塗り固めることで、死にながら生きることが可能になります。
ちょっとムゴイ言い方をすれば、生きるフリをすることができるのが人間です。
幸か不幸か、僕たちは、死んでしまっている本当の自分を見られないように、もしくは見なくていいように、生きた人のマネをして毎日をそつなく過ごす能力をもっているのですね。
ブルーピリオドの2巻で、八虎の友人であり、いわゆる女装男子であるユカは、次のようなセリフを八虎に言います。
『世間が良いっていうものにならなきゃいけないんなら俺は死ぬ』
他の人々とは違う生き方をしているユカは、世間のモノサシでは「フツー」ではありません。
だからこそ、ユカは普通の人には理解されない痛みを経験します。
しかし、それでもユカは自分を曲げようとはしません。
なぜなら、それが自分の死であることを知っているからですね。
社会に合うように自分を化かすことは、道化師のような人生をもたらします。
たしかに、衣装をまとい厚化粧をすれば安心安全が担保できるかもしれません。
一方で、ユカのような人生を選ぶことは、裸の自分で生きることです。
裸の自分で生きることは、当然ながら自分が傷つく危険性をはらんでいます。
もしかしたら、身を守る衣服がないことで死んでしまうかもしれません。
服を着ていれば傷つかなかった攻撃や、服を着ていれば寒くなかった環境でも、裸でいることで命にかかわるダメージを負うことがありますし、それにより本当に死んでしまうかもしれないのです。
しかし、裸の自分でいることで訪れた死は、ある意味では栄光の死であり名誉の死です。
社会に完全に馴染んでいる道化師たちは、きっとこのような死をとげた人を見て馬鹿にするか眉をひそめるのでしょう。
「アイツはなんで裸で過ごしてなんかいたんだ?」
「すっぽんぽんで生きてるから死んだりするんだよ」
彼らには、ユカのような人たちのことが理解できません。
もちろん、フツーに考えると、賢い選択は与えられた衣装を着て生きる人生でしょう。
しかし、それが死にながら生きることであることを理解している人たちは、それを着て生きのびるくらいなら、死ぬかもしれない危険があるとしても、裸一貫で生きることを選びます。
これを着ろと命じられた衣装を着ながら生きることは、彼らにとっては死よりも恐ろしいことであり、それは不名誉で不誠実な死を身にまとうことと同義だからです。
だからこそ、ユカは傷つき凍えながらも、ありのままの自分で生きることを選ぶのだと思います。
自己実現というありのままの自分を生きる人生とは、このような人生です。
決して、ハッピーだけが待っている人生ではありません。
ある意味では、不幸な選択とさえ言ってもいいとすら思えます。
しかし、もし仮に社会の基準で「不幸」という烙印を押されたとしても、それすら受け容れられるのが自己実現を生きる人たちです。
彼らは、自分の内的な価値基準で生きる裸の人生を、本質的な愛と勇気とともに生き続けるのですね。
最後に、死に関して一つだけ触れておきたいセリフがあります。
ブルーピリオドの4巻で、ユカは友達に「死にたい」とぼやいたことがあった際のとあるエピソードを八虎に話すシーンがあります。
ユカの「死にたい」という言葉を聞いたその友達は、ユカに対し「じゃあ裸になって死になよ」と言うのですが、それに対してユカはそんな恥かしいことをする意味が分からないと返答します。
ユカいわく、それを聞いた友達はこう答えたそうです。
『恥ずかしいと思うなら、どう見られてもいいと思えないなら、まだ死んじゃダメだよ』
2.心の声は敵?それとも味方?
「心の声に従う」であったり「心の声を聴く」といったフレーズは、もはや使い古されていると思います。
それが大事であることは、多くの人が共感することですよね。
いずれにしろ、実際に心の声を聴くか否かは別にしても、あるいは心の声を聴くことが出来るか出来ないかは置いておいたとしても、その価値を見出すことは自分自身にかできないことです。
心の声を聴いたことを後悔することだってあるかもしれません。
心の声と喧嘩することだってあるでしょう。
むしろ、誰しも幼いころにこのような経験をしたことがあり、だからこそ大人になるにつれて自分の本心を無視することが得意技になります。
「楽しい」より「正しい」を選び、「好き」より「得」を選び、「やりたいこと」より「やるべきこと」を選ぶようになります。
自分の好奇心や素直な気持は、思考による損得勘定や義務感、恐怖心によりかき消されます。
自分を守るのは、計画性や効率性や確実性といったものばかりになるのですね。
先ほどのセリフの続きで、ユカは傷心する心で次のような言葉を八虎につぶやきます。
『俺の”好き”だけが俺を守ってくれるんじゃないのかな…!』
「これが好きだ!」「これがしたい!」という心の声に従うことは義務ではありません。
それが絶対的な正解でもないと思います。
しかし、自分自身の本当の人生を生きる人にとっては、それが先ゆく道を照らす唯一無二の光になるのです。
その光を頼りに進む過程で出会うあらゆる経験が自分の糧になり、他者の批判や冷笑や陰口という攻撃から自分を守る盾になります。
これは、自分の「好き」を貫き続けた人だけがもつ防御力であり強さでもあると言えるでしょう。
自分の「好き」を貫く勇気のない人には、この強さは身につきません。
「好き」と向き合うことやそれを貫く過程で養われる自分色を極めた人間性が自分を守り、自分を更に強くし深めてくれるんですね。
その道のりの中で裸の自分を好きになることが、自己実現のひとつの側面でもあります。
いずれにしろ、自分の心の声に従うという裸で生きる人生は、その人だけの自分色の人生をもたらしてくれます。
つまるところ、僕たちはいつ何時でも、自分の本音を生きるかどうかを常に選び続けているのですね。
3.空気を読むことのメリットとは?
「KY(空気が読めない)」という言葉がもはや死語になりつつある昨今、いまはむしろ同調圧力などが代わりに問題視されるような傾向すらあると思います。
「みんな違ってみんな良いよね」という言葉の方が比較的多くの支持を集めやすいですよね。
それでも、実情はまだまだ空気を読む場面が圧倒的に多い気もしないでしょうか。
仕事にしろプライベートにしろ、「所属と愛の欲求」や「承認欲求」をもつ僕たち人間は、どうしても孤独への恐怖心を拭うことが難しいのです。
あるいは、孤独ならまだしも、批判や対立や陰口を恐れることで、おずおずと空気を読んでしまうこともあるでしょう。
ブルーピリオドの2巻にクラスの文化祭の出し物を決めるシーンがあるのですが、そこでクラスメイトの大半が賛成する出し物の案に流れのまま決まりそうになるなか、ユカはその案に反対します。
そのユカに対して、八虎は『やば、空気読む気ないじゃん』と呆れたようなドン引きするような表情で言い放ちます。
そんな八虎に対し、ユカは毅然とした態度で不敵な笑みを浮かべながらこのように言うのです。
『それで何も言わないなら君は空気そのものだね』
今さらながら、ユカって本当にカッコいいですよね(笑)
KYと揶揄され孤立することを恐れ自分を歪めていると、中身のないカラッポな人間になります。
それは、空虚でわびしい存在であり、空気と変わらない軽さ。
少し風が吹こうものなら、あっという間に吹き飛ばされてしまうような存在です。
または、個性のカケラもないロボットのような存在であり、いてもいなくても変わらない、代わりはいくらでもいる存在と言ってもいいかもしれません。
いずれにしろ、空気を読み空気と同化することで打たれ弱くなっています。
自分の心を深めることをしてこなかったことで、ちょっとした批判や攻撃で見る見るうちにヘタレてしまうんですね。
一方で、群衆からは「ハレモノ」や「変わり者」と言われるユカのような存在は、空気と一体化することを選ばなかった人特有の強さがあります。
大衆からは「ハレモノ」とのレッテルを貼られる彼らは、マズロー心理学的に言えば「ツワモノ」です。
ありのままの自分を覆い隠すことなく解放する人たちをマズローは自己実現者と呼び、彼らこそが真に健康な心の持ち主であるとしていました。
空気で満たされた針の穴一つで壊れてしまう風船のような自分を生きるか、それともユカたちのように自分の個性やオリジナリティで内側をいっぱいに満たす自分を生きるかは、自分にしか選ぶことができません。
「ツワモノ」としての人生とは何なのか、あるいは本当に健康で強かな心とはどのようなものなのかを、僕たちはユカの生き様から学ぶことができるのだと思います。
4.最高の自分ってどんな自分?
ブルーピリオドの4巻で、美大に合格した作品と自分の作品の違いを訊きに来た八虎に対し、予備校の先生である大葉先生という女性の先生がこのようなアドバイスをします。
『1位の絵じゃなくて、矢口の「最高の絵」を目指さなきゃね』
僕たちは、油断するとすぐに社会的に評価されているものを参考にしようとします。
これは、ネットで何かを買うときにレビューだけを参考にしたり、飲食店を選ぶ基準を星の数だけで判断したりすることと同じですね。
あるいは、有名人や著名人や権威のある人物の評価によって自分の意見を変えたり、彼らと同じような選択をすることも同様と言えると思います。
もちろん、それ自体は決して悪いことではありませんが、そういった他人軸ばかりコンパスとして使用していると、自分のコンパスは狂ってしまいます。
また、社会的なモノサシで評価されることしか価値がないと思い込んでいることも少なくありません。
社会から太鼓判を押されたり、競争に勝つことによって自分を認めようとすることを、まるで催眠にかかったかのように盲目的に望んでいるのですね。
そして、世間からの「いいね!」をたくさんもらえなかったり競争に敗れてしまった自分を、責め、けなし、拒絶し、受け容れることができません。
自分が本当に望んでいることや、自分が本来目指すべき場所のことなどスッカリ忘れてしまって、ふらふらふらふらと自分でも気付かぬうちに迷路に忍び込んでいくのです。
大葉先生は、先ほどのセリフを言う前にこのような事も前置きをしています。
『他の作品を気にすることは良いことだけど、比較しすぎるのは危険なの…意味わかる?』
このセリフの後で、「一番ではなく最高を目指せ」と八虎に言うのです。
つまり、他人のことを気にしすぎると、自分にとっての最高が分からなくなってしまうということが大葉先生の言いたかったことなのだと思います。
「アイツと比べて自分は優れているのか?」
「アノ人と勝負したら勝つのはどっちなんだ?」
「アレと比較したときに私に足りないものはなんなのだろう?」
こういった視点は、自分を客観視する上ではとても大切なことですが、そちらに重心が傾きすぎると、自分自身が傾きます。
自分自身が傾くことで、視野は狭まり、視界は悪くなり、視点が限られてしまい、他の可能性や他の世界が見えなくなってしまうのです。
しかも、重心が他者にあるので、思うように進むこともできません。
そうして、気付けば「わたしはダレ?ここはドコ?」という自己喪失の状態に陥ってしまうんですね。
自己実現している人というは、社会からの評価を気にしません。
社会的な名誉や栄光や名声には興味がないのです。
それらを参考にすることはあっても、あくまで自分のモノサシで最高のものを実現しようとします。
その一方で、自分のモノサシがない人ほど、他者のモノサシで良い評価を得ることに躍起になります。
むしろ、自分のモノサシがないからこそ、他者のモノサシにすがることで自他を評価判断しようとするのですね。
承認欲求は自分を束縛するものとなり、「私を褒めて!」「僕を認めて!」と暴走するか、他人からの批判を恐れ縮こまるようになります。
このタイプとは対照的な、真の意味で「尊重の欲求」が満たされている人は、社会から評価されているかどうかに関わらず自分を受け容れることができており、ありのままの自分を肯定しているので承認欲求は必要なくなります。
嘘偽りのない裸の自分を尊重し、大切にしているからこそ、彼らは承認欲求さえも包み込むことができるのです。
これは、他人軸で生きている人にはできないことです。
この「尊重の欲求」の満足は、自分軸で自分を受け容れることでなされる真の自己肯定・自己受容であり、これこそが真の自尊心なのです。
この自尊心を育めているからこそ、彼らは自分基準で「最高の絵」を極めることができるのですね。
5.イイ子ってどんな子?
先ほどと同じブルーピリオドの5巻において、大葉先生は八虎との定期面談で、八虎のとある弱点を指摘します。
その弱点とは、八虎がマジメであるという点なのですが、一般的にはマジメは良いことですよね。
なぜ、大葉先生は八虎のマジメさを美大合格における足枷になる可能性があると考えたのでしょうか?
そのヒントとして、大葉先生は八虎に対しこのような言葉を投げかけます。
『でも、マジメさに価値があるのは義務教育までよ。マジメさ…イイ子でいることを評価してくれるのはそうだと楽な先生と親だけでしょ』
「イイ子にしてろ!」「イイ子にしてたらご褒美上げるわよ!」と言う大人は、実はほとんどの場合が、子どものためを思って言っている言葉ではなく、自分のために言っている言葉です。
そして、現代社会における「イイ子」とは、自分を曲げて既存の型にはめることができる子どものことでもあります。
個性を押し殺し、聞き分けの良い子どもがイイ子。
そうではない子どもは「手がかかる」子どもでありワルイ子なので、なんとかしてフツーの子どもにしようとします。
キツイ言い方をすれば、自分の意思で生んでおいて、「手がかかる」という理由でその子の本質を殺そうとするのですね。
これを理解している親というのは、「手がかかる」ということに価値を見出し、自分の責任を本質的な意味で自分で引き受け、子どもの可能性をより伸ばそうとすることができるのです。
彼らは、我が子を「イイ子」に加工した先に待っているのが優秀な奴隷としての人生であることを知っているので、我が子が社会的なモノサシで測ると「ワルイ子」あるいは「異端児」「はみ出し者」になろうとも気にしません。
優秀な奴隷のマジメさは、他人にも同じマジメさを強制するという特徴があるのですが、それは他ならぬ自分がマジメでいることに不満を感じているからです。
自分は我慢してマジメでいるのに、自由に闊歩している人を不真面目だからあんなことが出来るのだと勘違いして腹を立てるのですね。
だからこそ、自分と同じように周りにもマジメを強制して束縛し合おうとするのです。
みんな揃って暗い穴ぐらに集まれば寂しさやみじめさを感じなくて済むのは、確かに事実と言えるでしょう。
その一方で、本当の真面目さを理解している人は、社会通念や一般常識という互いを束縛する役目にしかならない鎖ではなく、自他をより解放的にする自立した倫理観と人間性で自他を活かしています。
その行いや振る舞いや選択がたとえ社会から理解されなくても、あるいは自分が「イイ子」と評価されることがなくても、全く気になりません。
なぜなら、それらが盲目的で無教養な価値観から出来ていることを知っているからですね。
だからこそ、彼らは自分軸で遊ぶように仕事ができ、社会にとって本当に有益な存在として神様からも愛されるような「良い子」として、色々な縁と巡り合いに恵まれながら本質的な真面目を生きているのです。
ちなみに、「真面目」の語源は、しきりに瞬きをする様子を指す「まじろぐ」の「まじ」や、じっと見つめる様子を表す「まじまじ」と、「目」が合わさってできた言葉で、つまるところ「真面目」とは、じっと凝視したり何度も目をしばたかせるほどの真剣な顔つきを指すことから、本気であることや誠実な様子を表す言葉だったという説があります。
これは、マズローの語った「無邪気な目」や「無欲で没頭し熱中する」と通じる話ですね。
要は、本質的な意味での「真面目」とは社会的な「イイ子」として生きるさまではなく、澄んだ瞳で世界のありのままの姿を見ながら夢中になって何かに取り組んでいる様子のことなのです。
この意味では、子どもが我を忘れておもちゃで遊んでいる姿こそ、真面目な状態なのです。
そして、この意味における真面目を生きることこそ、自他にとって真に誠実な生き方であり、勇敢かつ自立的な「真面目な生き方」なのだと思います。
そういった意味において、大人であるにも関わらず本当に自分の好きなことに誠実に熱中している自己実現者というのは、真面目の極みであるとすら言えるかもしれませんね。
大葉先生が八虎に対して放った先ほどの言葉を、自分に対して放たれた言葉として受け止めることで、僕たちは本当の真面目さとは何なのかを腑に落とすことができるのではないでしょうか。
6.本当のワガママとは?
この記事で最後にピックアップする名言は、ワガママに関する内容です。
ここで取り上げるセリフも、大葉先生のものになるのですが、先ほどの面談での発言に続き、大葉先生は八虎に対してこのような言葉を言います。
『矢口に足りないのは、「自分勝手力」よ。』
また、この「自分勝手力」を別の言い方で、「楽しんじゃう力」とも表現してくれています。
この「自分勝手力」と「楽しんじゃう力」がないと、美大の合格は厳しいとすら大葉先生は考えていました。
これは、ある意味では空気を読む八虎が最も苦手なことだと言えると思います。
あるいは、仮に他者を不快にさせてたとしても自分が楽しむことは、周囲の機嫌をとり続けてきた八虎にとっては経験したことのない世界だとも言えるでしょう。
いずれにしろ、これまでの安全で安定した人生の中で有効だったスキルが、美術という裸の自分を表現する世界においては自分を苦しめるものになっているとも捉えられますね。
一般的な意味で「マジメ」で「イイ子」なタイプは、自分勝手に振舞うことができません。
同様に、自分の心の声に素直に従って楽しむこともできません。
このタイプは、他人が楽しんではじめて自分も楽しむことに許可を出し、他人が楽しんでいることが自分が楽しむべきことになるので、自分軸で楽しいことを選んだり自分だけの楽しさを正直に表現することが大の苦手です。
言い換えれば、「わがまま」になることができないのですね。
これは、他者から嫌われる恐怖心から、わがままに振舞うことをずっとしてこなかったが故の代償と言ってもいいかもしれません。
そして、自己実現という人生を生きている人というのは、基本的にわがままです。
しかし、これは利己的という意味ではなく、「あるがままの自分=我がまま」という意味でのわがままです。
この意味でのわがままを生きている彼らは、自分のわがままを貫くことが他人を不快な思いにすることはありません。
むしろ、自分があるがままに振舞えば振舞うほど他人に価値を提供できます。
言い換えれば、自分勝手であればあるほど、周囲の人にその豊かさが還元されるのですね。
それは「自分のため」と「相手のため」が統合された状態であり、自分のためにすることが必然的に相手のためにもなっている状態。
この状態のことを、マズローは「シナジー」と呼びました。
シナジー状態においては、自分と他者の利が相反することなく、むしろ一方の利が他方の利にフィードバックされ、それが更に前者により良い影響をもたらされます。
イメージ的には、さながらDNAの二重らせん構造のようにしてお互いがお互いを高め合い無限に上昇していくような感じでしょうか。
この状態におけるわがままを、あえてマズロー的に言い直してみると「高次のわがまま」と言えるかもしれません。
そして、この種のわがままというシナジーを生む条件が、何を隠そう「楽しむこと」です。
自分勝手に楽しめない人は、他人にもそれを許しません。
それこそお互いがお互いの足を引っ張り合うように、ズルズルと奈落の底に落ち続けていきます。
「マジメ」の意味をはき違えた人は、「マジメ」という鎖に足を絡みとられ、その重しで自他をどんどん暗い穴に引きずり落としていってしまうのですね。
本質的な「真面目さ」を生きている無垢な心の持ち主は、遊ぶことを素直に楽しみながらどんどん自分のあるがままを洗練し、わがままを成熟させていくのです。
楽しむ恐怖を内包したツワモノは、楽しむことを通して自他を豊かにできます。
そうして、お互いの創造性を最大限に解放させる形で、裸の自分を世界に表現していくのです。
言い換えれば、空気を読まずに心の声を聴いて自分にとって最高の色を極め続けることができるのです。
そんな彼らの創る作品が、周りの人々の心を動かさないわけがないですよね。
ブルーピリオドには、八虎の名台詞もたくさんありますが、ユカや大葉先生の魂のこもった台詞たちも、僕たちの心に深く響いてくれます。
また、ここでは取り上げることができなかった他の登場人物たちも、本当に素敵な言葉を伝えてくれています。
個人的には、もしマズローが生きていたらブルーピリオドをマズロー心理学の参考図書にしたような気すらするのですが(笑)、いずれにしろ、ブルーピリオドという漫画は僕たちが自分にとって本当に望ましい人生を送ることを力強くサポートしてくれる素敵すぎる作品ですね。