「自分探し」という言葉自体はメジャーなワードではあるものの、そもそもそれは一体どういう事を指している言葉なのでしょうか?
また、「自分探しはしてはいけない!」という意見もある中で、それをやる意味や価値はどこにあるのでしょうか?
今回は、このようなことについて、マズロー心理学における「自己実現」という概念も絡めつつ、自分探しにおける落とし穴などにも触れながら、紐解いていきたいと思います。
もしかしたら、いままで自分がもっていた「自分探し」へのイメージがまったく変わってしまうかも!?
もくじ
1.自分探しとは何か?
まず大前提としてですが、「自分探し」とは一体全体何なのでしょうか?
結論から言えば、それは文字通り「自分を探すこと」です(笑)
もっとも、多くの場合は自分探しとは「自分のやりたいことを探すこと」や「自分の好きなことを見つける」であったり、「自分に向いていることを発見する」という意味を含んでいます。
要するに、僕たちは大人になるにつれて自分のことが分からなくなってしまい、自分をもう一度俯瞰的に理解するために自分探しに取り組むといったイメージですね。
しかし、「自分探し」には実はこれ以外にも色々な意味が含まれていて、人それぞれでその意味づけが違うという特徴もあります。
したがって、人によっては自分探しを「子供じみたこと」や「精神的に未熟であること」を結びつけ、自分探しをしている人を「イタイやつ」「モラトリアムを抜け出せない青二才」のように捉えることもあります。
そして、自分探しをネガティブに捉えている人は、誰かが自分探しとして本を読んだりセミナーや講座を受けたりする姿を見て小馬鹿にしたりすることもあったりします。
あるいは、自分探しと称して旅に出ることを揶揄する場合もありますね。
もしくは、ジョブホッパーとして転職を繰り返したり、住む場所を次から次に変える姿を見て、それを批判することもあるでしょう。
いずれにしろ、天職と言えるような仕事やライフワークとなり得る取り組みを探すこと、あるいは自己啓発や成功哲学に勤しむことは「自分探し」の典型例とも言え、いまの社会ではどちらかと言うと否定されがちなことです。
もっとも、そのような行動が必ずしも「自分探し」になっていないケースももちろんありますが、実際のところは確かに多くの場合はそれが広い意味での「自分探し」になっていることは事実なのではないでしょうか。
詳しくは後述しますが、なぜならそれは「理想の自分を追い求める」というスタンスだからですね。
もちろん、高い理想を掲げてそれを目指して一生懸命になることは悪いことではありませんが、その背景には、現実逃避もしくは自己否定が存在しているという意味では、これも一つの「自分探し」と捉えることもできます。
なおかつ、これはマズローの語る自己実現の本当の姿とは正反対のスタンスです。
ちなみに、この事も後で詳しく紐解いていきますのでもう少々お待ちくださいね。
その一方で、冒頭でも触れたように、自分探しをする人々の心情として、「自分のやりたいことが分からない」という気持ちがあることも一つの大きな特徴ですね。
「私が本当にしたいことって何なの!?」「俺が自分の人生でやるべきことは何なんだ!?」という気持ちが大きいと、自分探しを実行することが多いと言えます。
特に、近年はこのような気持ちを抱いている人はとても多い気がします。
その背景には、仕事観や死生観なども含めた価値観の多様化や、社会システム・ライフスタイルの変化などがあります。
あるいは、大きな意味での時代の流れや、もっと技術的な側面におけるテクノロジーの発展がこれを後押ししていることもありますね。
いずれにしろ、「自分のやりたいことが分からない」という人が増える根本的な原因には、僕たちを「やりたいことが分からない」という状態に陥らせる社会的な側面における問題があるということも言えます。
平たく言えば、現代社会で生きようとすると「自分のやりたいことが分からない」という状態になってある種当然なんですよね。
なお、マズローは、社会で生きる人々をこのような状態にしてしまうこのような社会を「不健康な社会」と呼び、注意喚起をしていました。
うつ病をはじめとした心の病気を患う人が増える背景にも、この不健康な社会の存在があったりもします。
言い換えれば、「やりたいことが分からない」という状態が長く続いたり、あるいは「やりたい事ができない」という状態が我慢の限界を超えると、僕たちは精神的にもたないようにできているのです。
そして、だからこそ「やりたいことが分からない」という自分の気持ちにフタをしてしまう人が多いのでしょう。
つまり、多くの人々が、「自分の本当にやりたいことを見つけたい!」「やりたいことをやって生きていきたい!」という気持ちに素直に従うことはツライことだと頭のどこかで知っているので、その事と真正面から向き合うことに自分でブレーキをかけてしまうのですね。
そうしておけば、確かに重度の心の病にはならないかもしれません。
それに、世の中にはそのような人の方が圧倒的に多いので安心感も得られますし、本当にやりたいことする代わりに自分の気を紛らわせてくれるコンテンツな無数に存在しています。
そういったコンテンツを消費さえしていれば、ある意味では心穏やかにそれなりに楽しく生きていくこともできますし、捉え方次第ではそれが賢い選択であると言えるのも事実ですよね。
しかし、マズロー心理学的言えば、そのように不健康な社会に依存し自分の本心を押し殺しすと「萎縮した人間性」の持ち主になってしまい、恐怖心に支配され自己防衛MAXで窮屈な世界に生きる、本質的な意味での人間らしさからはかけ離れた人生となってしまいます。
そして、これとは対照的な人生を、マズローは自己実現と呼んでいました。
そういった意味では、「やりたいことが分からない!」という人が増えているのは(自分のその気持ちをちゃんと自覚して取り組んでいる人が増えているのは)、マズローが語った「欲求階層」における「自己実現の欲求」で生きようとする人が増えているということだと思います。
「自己実現の欲求」とはすなわち、「自分らしく生きていたい!」「自分の眠っている可能性を最大限に発揮したい!」という欲求なので、これは「自分が本当にやりたいことや好きなことを知りたい!それをやりたい!」という気持ちを同義と言えます。
つまり、自分探しをすること自体は、「自己実現の欲求」から来ている可能性が高いということですね。
もっとも、人によっては自分探しが「尊重の欲求」や「安全の欲求」となどといった「自己実現の欲求」以外の欲求から生じている場合も少なくないのですが、いずれにしろ自分探しと自己実現自体は非常に深い関係性にあるということは事実です。
このような意味では、自分探しはある種の「人間らしい」取り組みであると言えますし、実際マズローが「自己実現の欲求」だけは欲求階層における他の基本的欲求と違い人間特有の欲求であると述べていたことを踏まえても、自分探しはとても人間味のあることだとも言えると思います。
実際、お猿さんやニャンコやワンコが自分探しをすることはありませんよね(笑)
そう考えると、自分探しというのは僕たち人間だけがすることであり、「自分をちゃんと知りたい!」というのはとても人間っぽい欲求だとも言えそうです。
しかし、言うまでもなく自分探しというのは、なかなかにして厄介者でもあります。
というもの、ややもすると僕たちはあっという間に自分探し特有の「落とし穴」にハマり込んでしまうからなんですよね。
2.自分探しの落とし穴
自分探しに潜む落とし穴とは何なのでしょうか。
そもそも、「自分探し」というものは、冷静に考えるとその構造自体がおかしなことなんですよね。
なぜなら、文字通り「自分が自分を探している」んですよ?(笑)
いまここにちゃんと存在している自分を、一体全体どこに探しに行くのでしょうか。
このような意味で、「自分探し」というのはそもそもの時点で矛盾をはらんだものになります。
もちろん、人によっては「本来の自分を探す」という意味で自分探しを捉えている場合もあると思います。
しかし、大抵の場合はそれは本当の自分という仮面を被った「理想像としての自分」だったりします。
しかも、その理想像は自分自身が心の奥底から願っているものではなく、社会や他人から与えられた理想像であることがほとんどです。
つまり、借り物であると同時に偽物である理想像を自分の本当の目指すべき姿だと勘違いしてしまっているケースが多いということですね。
なお、マズローはこのような状態を「疑似自己」と表現し、自己実現の対照的な存在として警鐘を鳴らしていました。
なぜなら、自己実現とは「ありのままの自分自身で在り続ける」ということであり、疑似自己はこれとは真逆のベクトルだからですね。
ちなみに、この意味において、多くの方が「自分探し」のことを自己実現を促進してくれる「自己理解」というものと混同してしまっていることも多いのですが、この「自己理解」についてはこちらのコラムでまとめているので後ほどお読みいただければと思います。
つまるところ、ここでは結論だけ言うと、自分探しとはありのままの自分をしっかりと知る自己理解でもなければ、ありのままの自分を活かしきる自己実現でもありません。
そして、これらを踏まえたマズロー心理学的に捉えた「自分探しの落とし穴」というのが、ここでのメインテーマになる「欠乏欲求」というものになります。
もっとも、欠乏欲求とは何かについてはこちらのコラムで書いているのでこれも後ほどお読みいただきたいのですが、ここではその結論だけ言うと、欠乏欲求とは「無い物ねだりの欲求」です。
言うなれば、空白を満たすことが目的の欲求で、文字通り「欠乏感」から行動することです。
平たく言えば、「欠けている感じ」「物足りない感覚」「わびしい空虚な気持ち」などを満たすことが動機なのですね。
もちろん、欠乏欲求は一概に悪いものではありませんが、無い物ねだりである欠乏欲求は他者依存的な側面が強いという特徴があります。
要するに、自分自身で自立的に満たせない要素が多いので、その欲求の満足にばかり意識が向くと自分の外側にある自分以外の物事に右往左往してしまうのです。
また、欠乏欲求は満たしてもスグにからっぽの状態に戻ってしまい、またもう一度満たす必要があるという性質もあるので、この点においても心理的にシンドイものがあります。
そして、この欲求で自分探しをしていると、自分探しはいつまで経っても終わりません。
「これも違う」「あれも違う」ということをエンドレスに繰り返すだけで、結局自分を見つけることもなければ、ヒドイ場合は自分自身からどんどん離れていきます。
また、借り物で偽物の理想像を追い求めることも、実はこれと同じことになります。
ありのままの自分ではない幻想としての自分を追い続けていても、それはどこまでいっても手に入りません。
あるいは、仮にその理想像に辿り着いたとしても、すぐさまそれに不満を抱いてまた別の理想像を目指そうとします。
このような意味でも、ありのままの自分をないがしろにした欠乏欲求にもとづく理想像としての自分というのはマボロシなんですよね。
一方で、自己実現を生きている人は、欠乏欲求とは対照的な性質をもつ「成長欲求」で生きています。
それは、「ないもの」に目を向けるのではなく、「あるもの」に目を向けるスタンスから生まれる欲求です。
言い換えれば、「どこか遠くに在るもの」ではなく「いまここに在るもの」に目を向けるということですね。
したがって、成長欲求で生きる人生は、「無い物ねだり」とは真逆の「在るもの探し」によってはじまります。
自分の内側にもともと存在していたものに目を向け、それを抑えつけるのではなく素直に解放することによって自己実現は可能になります。
事実、自己実現を生きている人々は、ありのままの自分が内包しているものを創出する達人たちです。
彼らは、健全な勇気・卓越した自立心・揺るぎない自己肯定感によって、自分という存在をあますことなく表現することで世界と調和できているとも言えるでしょう。
いずれにしろ、このような意味でも自己実現と自分探しは対照的なんですね。
ちなみに、ジョージ・バーナード・ショーは、『人生とは自分探しをすることではない。人生とは自分を創ることである。』(Life isn’t about finding yourself. Life is about creating yourself.)という名言を残していますが、これはまさにこのことを指していると思います。
3.自分探しは悪いこと?
さてさて、ここで最後の結論としての話をしていきましょう。
今までの話のなかでは、「自分探しは悪いことだ!」というニュアンスが強かったと思います。
そして実際、世間一般でも、「自分探しをやるな!」という意見が結構多いようですね。
しかし、このコラムでの結論として言いたいことは、「自分探しは全然やっていいと思うよ」ということになります。
「え?今までの話と矛盾してない?」と思われたかもしれませんが(笑)、どうしてこのような結論にたどり着くのかと言うと、自分探しをしたこと自体は無価値ではないからです。
むしろ、自分探しをしたことで気付くことも沢山ありますよね。
「自分探しは無駄だった」という経験は自分探しをした人にしかできません。
現代は何かと「効率重視」「結果重視」という傾向が強いので、とにかくムダを嫌います。
非効率は悪であり、結果が出なければ意味がないというスタンスが大半です。
事実、多くの人が手軽な成功法や堅実な結果が保証されているメソッドやノウハウを求めます。
もちろん、それだって決して悪いことではないのですが、そこには「精神的な余裕のなさ」があると思います。
言い換えれば、心が狭くなってしまっていて、色々な意味で貧しい状態になってしまっているのですね。
これに対し「社会システムがそうさせているんだ!」という意見もあると思いますが、事実として同じ社会で生きていても、伸び伸びと余裕をもって広い心で生きられている人も大勢います。
なおかつ、そのような人々は効率や結果の大切さを理解していないわけではありません。
彼らは、それらの価値を知りつつも、重心がそちらに偏りすぎると本末転倒になることを知っているのです。
要するに、極度の効率化や結果だけに価値を見出すことで、僕たちは心に余裕が持てなくなり、ムダを悪としそれを排除しようとすることにばかりエネルギーを注ぐようになります。
そして、結果的に頭でっかちで心は疲弊している、感性が鈍った遊び心の消え去った人生を楽しむことのできないツマラナイ大人になってしまうということです。
そうなると当然、自分の日常は、味気ない荒涼とした砂漠と化してしまいます。
そのような意味では、自分探しを一度徹底的にしてみたほうが良い場合もあるんですよね。
「自分探しをした」という土台があるからこそ、辿り着ける場所や見えてくる景色があります。
少なくとも、他者から「自分探しなんてするな!」と言われてそれを情報として盲目的に取り入れて満足している人々よりも、ずっと価値のある生きた経験ができると思います。
もっとも、自分探しをする際にもポイントがあります。
それは、自分探しをするのであれば、それを選んだ自分を否定しないこと。
あるいは、自分探しをした自分を非難しないことです。
つまり、自分探しを現在進行形でしていても、過去形で終わっていたとしても、その自分を受け容れるということです。
この「受容」という在り方は、マズローの語る欲求階層的に言えば「尊重の欲求」を健全に満たすということですね。
そして、言うまでもなく、この「尊重の欲求」を満たせた人が「自己実現の欲求」へと進むことができるのです。
むしろ、自分探しをしないとしても、結果的に自分も他人も尊重できないのであれば、自己実現には至りません。
それこそ、先ほど述べたように「自分探しなんてイケナイことだ!」と言葉としてそれを理解し自分の人生で実体験として腑に落とせていない人は、自分探しをしている人を尊重できない狭い価値観で生きることになる可能性が高いです。
逆に、自分探しをした結果、自分自身を受け入れらるようになったり、その体験を通して本当の自分を発見したりすることだってあります。
フラフラフラフラと、まるでジプシーのように流れたことがある人特有の奥行き・深み・広がりのある人間性というものは確かにありますしね。
少し話が変わりますが、「急がば回れ」ということわざがありますよね。
あのことわざの本当の価値というのは、遠回り人にしか分かりません。
なおかつ、「急がば回れ、さすれば結果的に得をする」という意味でだけこのことわざを理解していては、きっと自分探しの本当の価値には気付けないでしょう。
「急がば回れ」のもつ隠れた意味とは、「回り道をした結果、損をしたとしても実りの多い人生になることだってあるよ」ということです。
言い換えれば、損得勘定ではなく、心のおもむくままに見たい景色を見て、行きたい方向に行ってもいいんだよということを伝えてくれているのが、「急がば回れ」ということわざに秘められた知られざる側面だと思います。
要するに、「効率的なのはどちらか?」というモノサシをいったん脇に置いてみることで見えてくる景色があるんですよね。
むしろ、効率と結果重視で、決まり切った狭い区画内を行ったり来たりするだけの人生は、僕たちの心を貧しく不健康なものにします。
いつも最短ルートで進もうとする人には、特有の不寛容さや視野の狭さがあることも多く、そのような人は世界全体が見えていません。
しかも、そのようなスタンスにより、さながら機械のように働くことしかできなくなり、それはロボットでも代行できる類のものです。
マズローは、このような生き方や社会の在り方を「構造化」と表現し警鐘を鳴らしていました。
そして、不健康な心を回復させるためには、非効率さや無駄を受け入れるような「非構造化」されている環境に身を置くことが大事であるとも述べています。
要するに、見通しの立たないことや無計画、不確実性やあいまいさを内包したような、自由度の高いゆとりのある「非構造化」的な環境でこそ、僕たちは人間らしく生きられるのですね。
そして、事実として、自己実現をしている人々というのは、この非構造化された環境を生きる達人でした。
彼らは、普通の人だったら不安で心配になってしまう「非構造化」の環境下でも、それを楽しむことができるんです。
しかも、自分の中心軸はしっかり保ったまま、地に足をついた人生を生きられています。
更に言えば、その上で結果もちゃんと残すことだってできているんです。
その結果とは、仕事で成果を残すという意味でもあり、社会に貢献するという意味でもあり、自分の周りの人々と真に良好な関係を築くという意味でもありますが、いずれにしろ、彼らは心理的に健康な状態だからこそ、こういった事を成し得ることができるのです。
このような意味において、自分探しをすることは決して悪いことではありません。
自分探しを一方的に悪者扱いするのは、構造化されたされた環境で人間性を失った効率と結果重視の人です。
彼らにとっては、山登りは山頂にたどり着くことだけが目的で、ゆっくりと山登りを楽しむことはできません。
自分らしく真の自己実現を生きる人は、プロセスとしての山道をしっかりと満喫することができる人です。
彼らは、道中で出会う花や木々の美しさを堪能し、しっかりと適度な休憩をとり、すれ違う登山者とのコミュニケーションも楽しみながら、頂上までの道程を100%堪能し、山頂にたどり着くことができます。
また、予想外や予定外の出来事にも臨機応変に対応する柔軟さも持っています。
なんなら、あえて計画を立てずに登山をする遊び心やユーモアも兼ね備えています。
彼らは、仕事においてもこれと同様の心持ちで働くことができています。
そのようなゆとりあるスタンスが、彼らの人生を本当の意味で豊かなものにしてくれているのですね。
構造化された世界に埋没してしまっている人々には、この豊かさは理解することすらできないでしょう。
いずれにしろ、自分探しも含めた人生の非構造化された部分を楽しむ勇気とゆとりが、僕たちをより自分にとって望ましい世界へと導いてくれるのだと思います。
最後のまとめになりますが、言うまでもなく、ロボットにはマズローの語る自己実現を果たすことはできません。
無駄や失敗や非効率という人間らしさを包み込んだ自己実現へと至ることができるのは、人間だけです。
自己実現が「完全な人間性の発揮」であるということも踏まえて考えれば、非構造化された世界を楽しむことこそが、真の人間性を活かす道のりであり、自分探しをする事の本当の意義なのではないでしょうか。