講談社の月刊アフタヌーンで連載されている「ブルーピリオド」という漫画には、僕たちが自分らしく生き続けるためには絶対に忘れてならない大切なエッセンスがギュギュっと凝縮されていると思っています。
ということで今回は、この漫画の第1巻をマズロー心理学的メガネをかけて読んでみたいと思います。
なお、ブルーピリオドにはマズロー心理学に通じるような名言が数多くあるのですが、ここでは1巻に収録されている名ゼリフの中から特に素敵な6つに厳選して、ありのままの自分を謳歌して風通しの良い人生を送るコツを掘り下げていきましょう。
ちなみに、この漫画には、知る人ぞ知る読み手を惹きつけるとあるストーリー作りの手法が隠れているので、最後にはそちらについても紐解いてみたいと思います。
1.ブルーピリオドの名言
ブルーピリオドという漫画がどのような漫画なのかを簡単に整理すると、主人公である高校二年生の矢口八虎(やぐち やとら)は、成績優秀かつクラス内でも一目置かれる存在であり、何不自由なく充実した毎日を送っているのですが、いつも心のどこかで空虚な焦燥感を感じて生きています。
そんな八虎は、ある日、一枚の絵に心奪われます。
その絵の衝撃は八虎を駆り立て、彼は美しくも厳しい美術の世界へ身を投じていくというのが、ブルーピリオドの大まかなスト―リー設定になりますね。
今回は、その中に出てくる登場人物たちが語る6つの名セリフを一つずつマズロー的な解釈で読み解いてみましょう。
1.自分に素直な人は強い人?
1巻の前半部分では、八虎は絵を描きたいという気持ちとこれまでの安定した学生生活との狭間で揺れ動いています。
美術部に入って美大を受ける選択肢と、ここままフツーにそつなく勉強をこなして一般大学に入る選択肢のどちらをとるかで迷っているんですね。
そんな八虎に、美術部顧問の佐伯先生という女性の先生が、このような言葉を投げかけます。
『美術は面白いですよ。自分に素直な人ほど強い。文字じゃない言語だから。』
これは言い換えれば、「芸術というものは、自分の心の声を聞きそれに従える人ほど強い」とも捉えられると思います。
なぜなら、創作を通して自己表現するには恐怖を受け容れる必要があるからですね。
その恐怖とは、八虎のように美術の世界に身を投じるという恐怖であることもあれば、単純に素の自分を表に出す怖さという面もあるでしょう。
いずれも、自分に危険をもたらす可能性へ抱く恐怖と言えます。
「挑戦して失敗したらどうしよう…」
「本音を言ってそれを否定されたらどうしよう…」
このような気持ちは、僕たち誰しもがもっているものだと思います。
そういった意味では、安定とは対照的な芸術の世界に足を踏み入れることも、素直な自己表現として創った自分の身代わりのような作品を批判されることも、どちらも恐怖がつきまとうものです。
つまり、それが絵画であれ音楽であれダンスであれ、創作・自己表現をするということは、自分のなかの恐怖心と真正面から向き合う必要があるということです。
そして、真の創造性というのもは、恐怖のあるところには生まれません。
マズローも語っていたように、恐怖がないことが真の創造性を発揮する条件なのです。
つまり、創造性を発揮するためには、あるいは自分に素直になるためには、恐怖を受け容れる必要があるということです。
恐怖心により萎縮した状態では、内なる創造性が表に出てくることはありません。
だからといって、この恐怖心を無理やり抑え込んでしまうと、これは後で自分を暴走させる要因になりますし、かといって恐怖心を見て見ぬフリをしてしまうと、そこから創り出されるものは光のない作品や芯のない作品になってしまいます。
つまるところ、自分の恐怖心を拒絶することは自分自身を拒絶することであり、それはありのままの自分を作品に表現できていないということです。
したがって、自分の恐怖としっかりとヒザを突き合わせそれを受け容れることでしか、ありのままの自分の創造性を最大限に表出した作品はつくりだせないのです。
この意味において、美術は自分に素直な人ほど強いと言えると思います。
僕たちは、自分の恐怖を受け入れらないからこそ自分に嘘をつきます。
怖いのに怖くないふりをしたり、怖がっている自分を否定したりすることは自分に正直になることではありません。
自分に正直になるとは、自分の恐怖心にも正直になるということです。
恐怖心も含めた自分を受け容れ、そんな自分を正直に表現する作品が、人の心を掴んだり動かしたりするのでしょう。
きっと、この事の最たる例が子どもですね。
子どもの正直さや素直さやは大人とは違う性質のものではありますが、子どもが創るものはなんだって見るものを惹きつける独特の魅力があります。
ちなみに、マズローは純粋無垢な子どもの創造性を「一次的創造性」と呼び、この創造性を成熟させた大人の創造性を「二次的創造性」と呼んでいたのですが、先ほどの名言に照らし合わせれば、この「二次的創造性」こそ、恐怖を受け容れた上で自分を正直に表現する強さを兼ね備えた創造性と言えると思います。
つまるところ、僕たちは、子ども心をもったまま大人特有の恐怖心を内包した「成熟した二次的創造性」を発揮することで、見る者を感動させられるありのままの自分を投影した作品が創り出せるのでしょう。
ちなみに、この内容はマズローが語った自己実現に至る八つの方法の一つである「迷ったときは正直になる」という内容への理解を深めてくれるものでもありますね。
2.才能はある?それともない?
冒頭で話に出てきた八虎が心を奪われた絵というのは、美術部の三年生である森先輩という女生徒が描いた絵でした。
八虎は、後日その感動を森先輩に伝えるのですが、その時に先輩の絵の才能を褒め羨ましがります。
しかし、森先輩はそんな八虎の言葉を聞いて、次のように語ります。
『才能なんかないよ。絵のこと考えている時間が他の人より多いだけ。』
このセリフは、一度でも何かに必死で打ち込んだことがある人であれば絶対に共感できるセリフではないでしょうか。
僕たちはとかく、一芸に秀でている人や優秀な成績を出している人を見て、「アノ人は自分とは違う」とスグに切り離そうとし特別扱いしようとします。
その対象は、有名人や芸能人、あるいは身近にいる知人や友人や家族にも及びますが、いずれにしろそのようにして線引きすることで、何がしかの利を得たり、あるいは自己否定のツジツマとして使ったり、現状維持をするための自己説得として利用することもしばしばです。
「私は凡人だから」「自分はフツーのヒトだから」という自己暗示の道具として、これらは非常に有効です。
しかし、森先輩も言うように、彼女たちは決して才能があったから素晴らしい作品や優れた成果を出せたワケではありません。
むしろ、そのような才能がないからこそ、地道に取り組むことで成果を上げたり、大事を成し遂げることができたのです。
ちなみに、マズローは先天的な天賦の才を持つ人も確かにいるとした上で、彼らの創造性を特異的なものとして切り分けていました。
そして、そういったある意味で特殊な創造性とは違う、この世に生を受けた者なら誰しもが自分のなかに内在させている唯一無二の創造性の発揮を「自己実現」と呼び、この自己実現的創造性に価値を見出していたのです。
つまるところ、僕たちは自分のなかに秘めたる種のような自己実現的創造性を発揮することで、自分らしいありのままの人生を楽しむことができるのです。
その過程で訪れる苦労や大変さは、もはや単純な我慢や自己犠牲をまとった苦労とは違った性質のものです。
そこでの努力は、ツラくて仕方ない歯を食いしばるような努力ではない努力であり、それはもはや一般的な意味での努力を超えたものなのです。
自己実現を生きている人たちは、仕事と遊びの境目がなくなり両者が統合されるため、まるで遊ぶように仕事ができるのですが、あえてストレートな言い方をすれば、これは「楽しい努力」と言えます。
この種の努力を生きる人生は、楽しいだけではなく、それ特有の苦しさやシンドさがありますが、その行いや取り組み自体が楽しかったり夢中になれるからこそできることなのです。
考えるなと言われてもその事について考えちゃいますし、やるなと言われてもそれをやっちゃうんですね。
自己実現する人の特徴の一つであり自己実現に至る方法の一つでもある「無欲で没頭し熱中する」というのは、このことです。
好きだから、楽しいから、興味があるから、止まらないしやめられない。
才能がなくても、続けられること。
その過程で、気付けば実力がついているのです。
それが他者から見たら、才能があるように見えるだけということですね。
森先輩のように、自分の中に眠るオリジナルな創造性を極め続ける楽しさを知ってしまった人は、誰に命令されるでもなくその道を歩き続けることができるのでしょう。
3.りんごは赤い?それとも青い?
りんごは何色ですか?と訊かれたら、ほとんどの人が「赤いです」と答えると思います。
しかし、実は世界には「青いりんご」が存在しています。
もっとも、これは青色の果実をつけるりんごの品種があるということではありません。
「青いりんご」というのは、澄んだ瞳の持ち主だけが創り出せる貴重なりんごです。
このことをマズロー心理学的に言い換えれば、「B認識」という世界のありのままの姿を認知できる認識で物事を見る人だけが見い出せるりんごということになりますね。
八虎は、先ほど引用した森先輩セリフを聞いた後、自分がその日の早朝に見た渋谷が青かったことを話し始めます。
森先輩は、その「青い渋谷」に完全に共感はできなかったものの、八虎に対し以前とある先生から言われた次のような言葉を伝えます。
『あなたが青く見えるなら、りんごもうさぎの体も青くていいんだよ』
つまり、渋谷が青く見えたのであれば、それは八虎にとってのまぎれもない真実であり、だれが何と言おうとそれは青くていいものなんだということです。
僕たちは往々にして自分の意見に同意を求め、また自分とは違う意見を拒絶したり頭ごなしに否定したりしてしまいがちですが、これらの背景にはこの森先輩の言葉を理解できていない盲目性があったりします。
世界には唯一絶対の正解があり、それが自分の意見か他人の意見かで今日も言い争いをしているのが現代社会と言えるでしょう。
しかし、澄んだ瞳でありのままの世界の姿を見ている人には、このような対立は滑稽に映ります。
世界には人の数だけ解釈があり、人の数だけ世界があるということを知っている人々は、このような無用な争いはしません。
「私にはこう見えるけど他の人は全く違って見えている」ということ、あるいは「他の人にはこう見えているんだろうけど私にはこう見えている」ということが理解できている人たちは、本質的な意味で自他の意見を尊重できるからです。
「渋谷が青いだって?何バカなこと言ってんだよ。頭でも打ったんじゃねえの?」というセリフは、世界の真実が見えていない人の言葉です。
ちなみに、これはマズローの言うB認識における内外合一の話とも共通するものですね。
真の自己実現を生きる超越者は、内なる世界と外の世界が統合することができています。
これをザックリと言い換えると、自分の見たものが自分の世界であるということです。
実際、目に見えた対象にどんな意味づけをするかでその対象の価値は変わりますよね。
りんごを見て「美味しそう」と思えばそれは「美味しい食べ物」になるし、「不味そう」と思えばそれは「不味い食べ物」になります。
だからこそ、その対象が他人の目にどう映っているかよりも、自分の目で見てどう思うのかが大事なのです。
「自分が変われば世界が変わる」という言葉の指す意味の一つはこのことでしょう。
同様に、「花を見てキレイだと思うあなたの心がキレイなのだ」というフレーズも、この意味で捉えることができますね。
「キレイだ」という意味づけができること、あるいはその花にキレイさを見いだせるのは、自分の内側にそれと同じものがあるからです。
この意味では、「キレイな花」を創り出しているのは自分自身であり、その「キレイな花」は自分内側に創り出されたものです。
かの有名なスナフキンの名ゼリフである『ぼくは自分の目で見たものしか信じない。けど、この目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ』という言葉は、自分の目に映る世界こそが正解であり真実であるということを伝えてくれているのだと思います。
「青いりんご」は、確かに世界に存在します。
それは、世界に青いりんごを見つけることができた人だけが見ることができる、その人だけの真実としてのりんごなのですね。
4.本音を語れる友達はいますか?
大人というのは、言うまでもなく自分を偽ることに非常に長けています。
分厚い仮面を被り、周りと似たような衣装を身にまとい、社会の指示に併せて言われたとおりにダンスを踊ります。
会社であれ家庭であれプライベートにおける友人であれ、裸の自分をさらけ出せる人は決して多くはいません。
高校二年生である八虎も、愛想よく振舞うことで周りと対立しない関係性を保っており、周囲に併せて自分の意見を言ったり行動を変えたりします。
言うなれば、八虎は空気を読む天才であり、同時に空気に馴染む天才でもあります。
そのおかげで、彼はクラスでも居心地のよい安全な環境で過ごすことができています。
しかし、その一方でいつもどこかで虚しさを感じているのも事実です。
それはまるで、他人の人生を生きているような感覚。
八虎は、このようなモヤモヤした感覚をことあるごとに感じるのですが、その感覚としっかり向き合うことをせずに過ごす日々をずっと送り続けていました。
そんな折、八虎は森先輩の絵画の影響で絵を描くことに目覚め、いつもは上手にサボる美術の授業で真剣に絵を描いてみるのです。
ちなみに、その絵というのが、先ほど登場した「青い渋谷」の絵ですね。
八虎は、自分の目に確かに映し出された青い渋谷を懸命に再現しようと筆をとるのですが、もちろん上手に描くことはできません。
結果的に完成した絵は、描かなければよかったと後悔するような出来栄えだったのですが、普段は喧嘩ばかりしている美術部の同級生に「これ綺麗だね」とその絵を褒められます。
また、いつも仲良くしている悪友のような友達であり八虎には青く見えた早朝の渋谷に一緒にいた同級生には、あの日一緒にいた早朝の渋谷を八虎が描いてるのだということが伝わり、その絵に共感してもらえるのです。
そして、そのことに感動した八虎は、思わず涙してしまうんですね。
八虎は、涙ぐむ姿を悪友からイジられるのですが、そのとき心の中でこのようなことを思うのです。
『その時生まれて初めてちゃんと人と会話できた気がした』
これこそ、自分の内なる創造性を発揮して作品を創る醍醐味であり、恐怖に従うことなくありのままの自分を表現することの価値だと思います。
この八虎のような経験は、多かれ少なかれ誰しもが体験したことがあることだと思いますし、あるいは仮に似たような経験がなかったとしても、この涙には共感できるのではないでしょうか。
そして、この涙への共感こそが、僕たちが自分を偽り他者と本音で語り合うことができていない証拠のような気がします。
言い換えれば、多くの現代人がいわゆる自己開示がほとんどできておらず、それが生きづらさやモヤモヤした感情の原因になっているということですね。
ちなみに、マズローは素直に自分を表現し自己開示できない社会を「構造化された社会」と呼び、そのような社会では必然的に自分を偽りながら他者と接する必要があると述べていました。
構造化された社会の特性の一つに、正解が決まっていてそれ以外を認めないというものがあるのですが、このような環境下で生きている人の口から出る言葉は、ウソかタテマエ、あるいは盲目的に採用している一般常識や社会通念や道徳だけになります。
それらを使ってコミュニケーションをとれば確かに他者との間に軋轢は生じず摩擦も生まれにくいのですが、言わずもがなこれは本音でのコミュニケーションとは言えませんよね。
前述したように、芸術における自己表現では嘘がつけず、裸の自分が現れるため、必然的にその創作物には本音が映し出されます。
言うなれば、その作品を見た人には作者の心が見えてしまうのです。
もっとも、それが怖いからこそ、僕たちは自分を偽ったり、素直な自己表現をしない作品を創ったりすることがあるのですが、いずれにしろ、ありのままの自分をしっかりと表現した作品は、受け手との間に真の心のやりとりが生まれ、嘘や一般論ではない自分オリジナルの本心からの会話を作品を通してすることができるのでしょう。
なお、これは音楽やダンスも同様です。
そして、このことは何も美術や芸術という分野に限ったことではありません。
他ならぬ普段の日常会話こそ、自分の自己表現の場なのです。
「自分の言葉は嘘偽りのない言葉だろうか?」
「この発言は他者の価値観を代弁しているだけなのではないか?」
「いまの自分の意見は社会の常識をそのまま言っているに過ぎないものではなかろうか?」
このような視点で自分の口から出る言葉を客観的に俯瞰してみると、自分が自分自身の本当の言葉を言っているのかどうかが見えてくると思います。
場合によっては、自分がまるで腹話術で使われる人形のように感じることもあるかもしれませんね。
5.好きなことは仕事にしないほうがいい?
少し前からよく見聞きするフレーズに「好きなことを仕事にしよう!」というものがありますよね。
一方で、「好きなことを仕事にしてはイケナイ!」という意見もあるようです。
これは、一体全体どっちが正しいのでしょうか?
結論から言えば、その答えは自分で見つけるものです。
それこそ、これは「青いりんご」を見つけるがごとく、自分色を極めることで初めて分かることだと思います。
しかし、いずれにしろ実際に好きなことを仕事にして活躍している人は大勢います。
では、彼らはどうしてそのようになれたのでしょうか?
そのヒントとなるものとして、佐伯先生が八虎に言った次のようなセリフがあります。
『「好きなことは趣味でいい」これは大人の発想だと思いますよ』
ここで佐伯先生が言う大人とは、マズローの言う「萎縮した人間性」をもつ大人たちのことだと解釈することができます。
自分のなかの人間性を萎縮させている大人は、自分と正面から向き合うことを避け、自分を偽ることで歪んだ認知をすることしかできません。
彼らは「澄んだ瞳」で世界の美しさを見ることも、「無欲で没頭し熱中する」こともできないのです。
「楽しいことは怠慢だ!悪だ!不真面目だ!逃げだ!」という価値観ががっちりとインストールされているので、楽しむ人を見て非難することも多いですね。
自分が採用している「仕事は嫌なことを我慢してすることであり、その対価が給料だ」という仕事観を周りにも押し付けますし、だからこそ他人にも寛容になれません。
その大人が消費者という立場になれば、その権限を乱用してクレーマーや態度の悪い客になることもあるでしょう。
いずれにしろ、「仕事」と「遊び」を低い次元で分裂させることしかできていないのです。
一方で、自己実現を生きる人々は、「仕事」と「遊び」を高い次元で統合できているので、好きなことを仕事にし、遊ぶように働くことができます。
彼らの場合は、自分が楽しめば楽しむほど、お客さんに価値が還元され顧客満足度の向上に繋がります。
仕事を通して自己実現を果たしている人たちは確かに成人した大人なのですが、腐敗した人間性とは対照的な成熟した人間性を内包する、自立的かつ受容的な、芳醇な香り漂う熟した果実であり、もちろん市場価値も高いのです(もっともこれは社会的なモノサシで言う市場価値とは違うものですが)。
ありふれた価値観を取り入れ萎縮した果実として腐り続ける人生を選ぶか、真の倫理観と共に遊ぶように仕事をし成熟した人間性で好きなことをし続ける楽しい人生を選ぶかは、自分にしか決めることができません。
本質的な意味での大人になるためには、「好きなことは趣味でいい」という言葉と真正面から向き合い、一度でもいいので実際に自分で好きなことを仕事にしてみることに挑戦する必要があるのでしょう。
6.どうして本を読むのですか?
情報化社会と言われて久しい昨今、テクノロジーの発展により益々情報で溢れかえる状況になっています。
何が真実で何が嘘かも分からずに、情報を得れば得るほど混乱することも少ないくないですよね。
あるいは、どれか一つの情報に固執したことで周りが見えなくなったり、一つの正解を握りしめることで自分で自分の首を絞めるようなことになっている場合もあると思います。
あちらとこちらで言っていることが真逆であるなどということは珍しいことではなく、情報の波に踊らされているという表現がピッタリ当てはまるのが現代社会とも言えるでしょう。
そのような時代において、本当に正しい情報というのはどうやって集めればいいのでしょうか?
あるいは、どの情報が正しいのかを見極める目はどのようにして養えばいいのでしょうか?
実は、八虎のとあるセリフの中にそんな疑問に応えてくれるヒントとなるものがあります。
今さらながら完全なるネタバレを含む話になりますが、美術の道に進むか普通の大学進学をするかの葛藤の末、八虎は美大を受験する選択肢を選びます。
そして美術部に入りどんどん絵画スキルを上達させていき、佐伯先生の勧めで八虎は美大受験のための予備校に通うようになるのですが、そこで他の予備校生のレベルの高さに圧倒されます。
それまで美術部員として絵のスキルが少しずつ上達してきた実感があったのにも関わらず、自分が井の中の蛙であったことを知るのですね。
八虎は、これまで学んだ知識や技術が通用しない世界に突入します。
せっかく身に着けた絵画の知識はあまり役に立たないどころか、予備校で新しく学んだ知識すら使いこなせません。
絵を描くための参考書を読んで頭では理屈を理解してやり方をおぼえても、それを活かす下地がまだないのです。
この姿はさながら、情報化社会に溺れる中で右も左も分からなくなる様子に少し似ていると思います。
これまで培ってきた知識や、あるいは新しく仕入れた情報が自分を望ましい方向へ導いてくれない状況は、予備校で悪戦苦闘する八虎も情報化社会に埋もれる人々も同じと言えるでしょう。
そして、そのような両手両足を縛られたような状況下で、それまでやったことない油絵に挑戦する機会に直面した八虎は、試行錯誤の末に次のような結論に至りキャンバスに絵を描き始めます。
『本で読んでもわからないから面白いんだ。理性は感性の後ろにできる道だ。だったらいっそ楽しんで描こう。いっそ遊ぶつもりで。』
解くべき問題も、解くべき方法も、その正解ですらも、一方的に与えられる教育を受けてきた僕たちは、とかく「正しい方法」「正しいやり方」「正しい答え」を求めがちです。
正解を他者の書いた本に見つけようとし、正しい情報をネット上の他人が書いた記事から探します。
それ自体はもちろん悪いことではありません。
しかし、大抵の場合は学んで終わりです。
「なるほどね」「そういうことね」という段階で終わってしまい、自分自身でその情報が正しいかどうか検証することはしないのですね。
盲目的にそれを採用するか、盲目的にそれを否定するかしかできないとも言えると思います。
あるいは、知識をダウンロードしただけで、自分の人生に活かす経験としてインストールはできていないと言い換えてもいいでしょう。
これはすなわち、アタマで理解しただけでココロでは分かっていないということです。
もしくは、これを別の言葉で言えば、実体験を通して腑に落としていないので頭デッカチにしかなれず、時代の変化に右往左往し他者の意見に振り回されてしまうということです。
重心はいつも頭部にあるので、バランスが悪く柔軟性にも欠け、足元が覚束ない状態。
この一方で、自分の解くべき問題も、その解き方も、その答えすらも自分で見つけることができる人は、自分軸で世界と関わることができます。
大切にするのは他人の意見よりも自分の気持ちであり、自分の価値観です。
彼らは、自分の心の声に従って「生きた経験」をすることで、唯一無二の体験をたくさんしていきながら自分の可能性をどんどん開いていきます。
重心はハートやハラに据えられているので、どっしりと地に足の着いた足どりで人生を歩んでいけます。
彼らが本を読んだりネットで情報を探すのは、あくまで自分なりの答えを見つけるためであり、それを何も考えず採用することはありません。
それらを参考にしつつも自分の頭で考えて、実際に身体を使って実践し、応用し、試行錯誤してはじめて、その情報が真実かどうかを見極めます。
もしくは、その過程で自分らしい別の真実を見つけることもできるでしょう。
いずれにしろ、そのようにして自分の心の声や内なる感性をコンパスにして一歩一歩踏みしめながら歩き続けることで、その後には理論や理屈というしっかりと踏み固められた道ができるのです。
この内容は、マズローが語った自己実現へ至る方法の一つである「内なる声に耳を傾ける」や「自分を極め続ける」ということへの理解を深めてくれるものだと思います。
ちなみに、少し前に触れた「好きなことを仕事に仕事にしよう!(好きなことを仕事にしてはイケナイ!)」という事も、好きなことを仕事にした人にしか真実が見えないことであり、好きなことを仕事にしようとすらしない人には、どちらの意見が真実かどうかは分からないか、他者の情報を鵜呑みにして頭で理屈をこねくり回すことで出した中身のない結論に着地することしか出来ないのですね。
楽しむことに腹をくくった八虎のように、頭で思考するのではなく心で感じて足を進めることで、僕たちはどんな時代の変化にも柔軟に対応できるしたたかさとしなやかを育むことが出来るのではないでしょうか。
おわりに
さてさて、ブルーピリオド1巻に収録されている名言とマズロー心理学の照らし合わせは以上になります。
改めてになりますが、ブルーピリオドには本当にたくさんの素敵なメッセージが眠ってますね。
そして、本来はこの続きで冒頭で触れた「知る人ぞ知る読み手を惹きつける秘密のストーリー構成」の話をしようと思っていたのですが、想像以上に照らし合わせがボリューミ―になってしまったため、続きはコチラの別の記事でまとめさせていただきましたので、ご興味ある方はリンクから飛んでお読みいただければと思います。