CHARCOAL FILTER(チャコールフィルター)の歌う「Brand-New Myself~僕にできること」という楽曲は、温度の下がってしまった心に再び火を灯してくれる稀に見るアツさをもった曲だと思います。
今回は、そんな熱量高いこの曲の歌詞を、マズロー心理学的イヤホンを耳につけて、その熱いメッセージを受け取ってみましょう。
【歌詞引用】
CHARCOAL FILTER「Brand-New Myself~僕にできること」
作詞:大塚雄三
作曲:大塚雄三
「Brand-New Myself~僕にできること」は、このような力強いドストレートな歌い出しで始まりますね。
駄目な自分を愛せはしない
強く生まれ変われ
やると決めたら背伸びはしない
体ひとつでぶち当たれ
(Oh Oh Oh Oh)
誰の中にも、ダメダメな自分というものはいるものです。
意志の弱い自分
勇気の持てない自分
ネガティブな自分
ダラけてしまう自分
嘘つきな自分
八つ当たりしてしまう自分
大事な人をぞんざいに扱う自分
言い訳ばかりしてしまう自分
テキトーな自分
後ろ向きな自分
他人の目ばかり気にしてしまう自分
自分を大切にできない自分
それこそ、挙げればキリがないくらいに駄目な自分は存在しています。
そして、そんな自分を変えたくて、今日も仕事に学業に家事に育児にガンバるのです。
「もっと強い心の持ち主に!」
「もっとスゴイ存在に!」
「もっと魅力的な人間に!」
「もっと素晴らしい人物に!」
「もっと素敵なわたしに!」
たくさんの人々が、自分のなかにある憧れの自分になろうとして、必死に生きています。
現実と理想の狭間でもがき苦しみながら、それでもなんとか前を向き、一歩一歩足を踏み出して進んでいくのが僕たち人間ですよね。
いつまでも待っていたら
僕の足は痺れてしまう
何も見えずに 何も言えず
腐っている暇はない
それでも、次第にその事にもだんだん疲れてきてしまい、現状維持という世界に身を投じてしまうことも少なくありません。
もしくは、その場に立ち尽くしているという自覚なかったり、前に進んでいるようで実は身を固めて体育座りをしてしまっている場合もあるでしょう。
人によっては、我慢という方法を使って、正座し続けることで何かを成し遂げようとしているかもしれません。
「ガマンしていればいつかは…」という呪文は、いまの社会ではとても得策のように感じられますし、我慢を美徳とする雰囲気の中では特に受け入れられやすいスタンスです。
「ガマンするのが当たり前だろ」「ガマン強くなければやっていけない」という価値観に囲まれることで、それが唯一の正解のようにも思えてきます。
それこそ、まるで苦行の如く、朝から晩まで歯を食いしばりながら痛みに耐えながら、今日も正座をし続けます。
自分の足がしびれていてもお構いなし。
むしろ、そのシビレが勲章のように感じるほど、我慢が甘い罠として僕たちを迎え入れます。
もしかしたら、しびれた足で歩き出すことで伴なう痛みが怖くて、正座をやめられないのかもしれません。
固く組んだ足を解放してしまうと、それまで正座していた時間が長ければ長い程その反動で痛みが大きくなることを知っているから、それを恐れているのかもしれません。
あるいは、しびれた足で歩くみっともない姿を馬鹿にされることが怖いということもあるでしょう。
もしくは、今まで長い間積み上げてきた我慢のゲージをゼロに戻すことが怖くて、正座をし続けるという選択をしている場合もあると思います。
いずれにしろ、僕たちはそのようにして自分の足を圧迫し続けることで、足の感覚をマヒさせていきます。
そうして、自分の足は、まるで他人の足のように、何も感じ取ることができない血の通わない冷たい足へと変貌していってします。
血流が悪くなり、必要な栄養がいきわたらなくなった足は、腐ってしまいます。
その不快さに嫌気がさすこともありますが、周りを見渡すと同じように正座している人がたくさんいるので、自分の行いが正常であるように思えてきて、それをやめようとはしません。
むしろ、正座をやめれば脱落者として失格の烙印を押されるのが怖いが故に、今日も一日中正座に明け暮れるのです。
正座をやめようものなら、理想の自分になるためにここまで一生懸命ガマンし続けてきたことがぜんぶパアになってしまうと思っているのですね。
「これって本当はおかしい事なんじゃないか?」
「みんなで正座し続けてるこの状況って一体何なんだ?」
そんな疑問を感じることもありますが、決して口に出すことは出来ません。
次第にそのことを考えることすらもやめ、素朴な疑問と心の声は彼方へと葬り去られます。
「痛い!苦しい!ツラい!」
「正座なんてもうやめたい!」
そんな声が頭の中で鳴り響くこともあります。
しかし、弱音を吐けば周りから冷たい目で見られることが分かっているし、実際他の人々も本音を押し殺して耐えているので、そんなことは口が裂けても言えません。
そうして、真一文字に口を結び、まぶたさえも閉じることで、我慢することへの違和感を無視することを決め込むのです。
マズローは、自分の「~したい!」という素直な気持ちのことを「欲求」と呼び、それを肯定的に捉えていました。
一方で、自分の本当の欲求を我慢し、本心を包み隠し、血の通わなくなった冷たく固い氷のような心の持ち主になることを「高次病」と呼び、人間らしい在り方とは真逆の状態であるとして僕たちに注意を促してくれてもいます。
長きにわたる正座により強くなっていたと思っていた心は、実はもう、ガマンの限界をとうに超えていて、健康とはほど遠い、治療が必要な状態にまでなっていたのです。
狭く暗い、風通しの悪い淀んだ部屋に集まり正座をし続ける人に対して、マズローは「それはもうやめなよ!」と声をかけてくれています。
「そんなことしても、心が疲弊するだけだ!」
「それは自分のなかにある人間性を歪ませることなんだと早く気付きなさい!」
「もっと自分の気持ちに正直になって、素直な欲求を満たしてあげないと大変なことになるぞ!」
そのような事を声を大にして伝えてくれているのです。
そして、実際にその声に耳を傾け勇気をふり絞って立ち上がる人に対しては、部屋の外の世界へと足を踏み出す方法もちゃんと教えてくれています。
そのようにして本当の自由と成長と強さが待っている広い世界で生きることを、マズローは「自己実現」という名前で表現していました。
ぎこちない言葉がいい
心はそんなに綺麗じゃない
歩き続けることだけが
僕の明日を決める
僕たちはとかく、いまの自分を否定し、理想像をこしらえてそれを目指そうとします。
具体的な人物が理想像である場合もあれば、想像上のイメージで理想像を描くこともあるでしょう。
いずれにしろ、それは今の自分ではない未来の自分の将来像です。
その将来像としての自分になることで、幸せになろうとしているのですね。
そして、その理想像とはかけ離れた今の自分という人間は恥ずべき存在であるため、周りの人から見えないところに隠します。
立派じゃない、賞賛に値しない自分は、人目につかない場所に押しやっておくのです。
そうして今日も、多くの人々が本当の自分を押し殺し正座をし続けるのですが、正座することをやめ部屋の外の世界に出た人は、今までの自分がいかに滑稽なことをしていたのかにビックリしてしまいます。
外は青空が広がっていて、空気が澄んでいて、木漏れ日や鳥の鳴き声が美しく、思わず笑顔になってしまうほど心地よい風が吹いているのに、なぜ自分は今まで室内にこもっていたのか不思議でしょうがないくらいに素晴らしい世界が、そこには広がっていたのです。
自分の足で自由に歩くことの楽しさを思い出したことで、なおさらそれまでの世界には戻りたくなくなります。
外の世界で生きる彼らには、部屋の中で正座する人々が、まるで罰を受ける罪人のように見えるでしょう。
眉間にしわを寄せながら苦しい表情で悶えている集団は、彼らの目には、さながら悪事をはたらいたことを反省させられている囚人のように見えるてしまうのです。
その二つの世界の違いに気付いた彼らは、自分の足で外の世界を歩き続ける人生を選びます。
もちろん、外の世界には特有の大変さや危険があるのですが、それでも彼らは大地を踏みしめ、目を見開き、耳を澄ませ、五感を最大限に活かしながら、外界を味わい尽くそうとするのです。
そのようしてあるがままの本当の世界を探究する人々を、マズローは「自己実現者」と呼んでいました。
彼らのその一歩一歩の足どりは、自分の心に血を巡らせ、栄養を届け、鮮度バツグンの状態の活きの良い心持ちで人生を謳歌することを可能にします。
あらゆる感覚はマヒすることなくむしろ研ぎ澄まされ、その洗練された感性と理性で歩みを進めることで、彼らは部屋の中にいたときには想像できなかったような絶景を目にしたり、本質的な意味で充実感を与えてくれる刺激的な体験を経験するのです。
駄目な自分を愛せはしない
強く生まれ変われ
やると決めたら背伸びはしない
体ひとつでぶち当たれ
(Oh Oh Oh Oh)
もちろん、室内で正座をし続けることで得られる強さもあるでしょう。
それは決して意味のないことではありません。
しかし、本当の強さとは、自分の素直な気持ちに従い、他者から嫌われることを受け容れ、自立的な心持ちで自分の責任を引き受け、自分が本当に望んでいる人生を生きることではないでしょうか。
自分を騙し、他者をあざむき、社会に依存し、あるいはそれらを非難し、こしゃくな手段や、こそくな考えや、小賢しい方法で人生を取り繕うことは、誠実なことでもなければ、健全なことでもありません。
裸一貫のありのままの自分でそれらとしっかりと向き合い、真正面から自分が本当にやるべきことに取り組むことが、本当の勇者であり強者だと思います。
真の強さとは、誰かとの優劣によって示されるものではありません。
相対的な比較によって証明される強さは、もろい強さです。
誰かを弱者や敗者に仕立てあげる強さは、矛盾や対立を生む強さであり、本当の強さとは違うものです。
「高い低い」「良い悪い」「大きい小さい」といったような、二軸のモノサシにおける直線的な範囲で規定される強さではなく、比較による「強い弱い」という次元すらも超えた強さが本質的な強さであり、それはもはや「強いか弱いか否か?」を超えた強さです。
それは、矛盾も対立も起こらない、統合と調和が織りなす強さです。
最悪の瞬間が僕に
“寝てろ”と囁いても
笑い飛ばしていくだけさ
迷いや苛立ち捨て去って
つまずいても構わないよ
心はそんなに弱くはない
失くしたものは要らないもの
本物は手に残る
僕たちに「寝てろ!」と呼びかけるものは無数に存在しています。
「大人しくしてろ!」
「そこから一歩も動くな!」
「黙って座ってればいいんだ!」
そんなメッセージは、少し見渡せばいくらでも見つけることができます。
しかし、自分らしい自己実現を生きる健康な心の持ち主は、そのような暗示にはかかりません。
彼らは特有の心の余裕とユーモアにより、それらを笑い飛ばすことができます。
それは、皮肉めいた冷笑や、相手を見下すような歪んだ笑みではなく、もっと快活で明るく周りの人々を気持ちの良くしてくれる透き通るような笑いです。
彼らは、僕たち人間がもつ本当の心の強さを知っているので、つまずこうがもつれようが泥だらけになろうがお構いナシ。
むしろ、そのような状態こそが人間らしさであることを理解しているので、自分のみっともない姿すら笑って受け容れることができるのです。
彼らは健全な自尊心と本質的な誇りをもっていますが、自分を固定し萎縮させる執着心としてのプライドは一切もっていません。
だからこそ、どんなことにも勇敢に挑戦し、失敗や恥を受け容れることができます。
彼らはそのような自由で解放的な心の在りようなので、当然過去にも現在にも執着しません。
むしろ、それらが自分の可能性を閉じることをちゃんと知っているので、それらをどんどん手放します。
「去るもの追わず」の精神にプラスして、「零れるもの拾わず」の精神で生きているので、逆にどんどんそのとき必要なものが必要なタイミングで入ってきます。
風通しの良い心持ちは、世界と循環する人生を生み、全体性の調和のなかで生きることになるのですね。
「ないものはない、あるものだけがある」という事が実体験を通して腑に落とせている彼らは、「本物だけが自分のなかに残る」ということを知っており、あるいは「自分のなかに残ったものが本物である」という価値観で生きています。
だからこそ、感謝を忘れずに、損得勘定を超えたところで周りの人々と豊かさを共有し合うことができているのでしょう。
輝いているあの人にも
見えない涙がある
走り続ける僕の胸に
熱い命は鳴り響く
もちろん、自己実現という自由を生きる人生にも、悲しい出来事やツラい出来事は起こります。
むしろ、そういったことが起こらない人生など、人間らしい人生ではありません。
なおかつ、自己実現を生きる人たちはそのような苦しい経験が自分をより成熟させることを理解しているので、それらともしっかりと対峙して、その経験を存分に味わい尽くすことが出来ます。
ツラいことから逃げてしまえば確かにラクではありますが、それは冷めた心をつくりだします。
凍てつくほどのヒエヒエ状態の心は、感受性が皆無なので、ある意味では生きやすくもあるのでしょう。
しかし、それはロボットにしてもらうことです。
冷たい命の人生は、機械たちに代わりにやって貰えばいいわけで、人間としてこの世に生を授かった存在がすることではありません。
「命を燃やす」ことは、人間にしかできないことです。
熱く燃え上がる命の炎が織りなす輝きや揺らめきは、見る人の心にも燃え移り、その人の心を熱くしたり暖めてくれます。
そして、僕たちは誰しもそのような可能性を秘めていて、マズローはその火種のことを「自己実現の欲求」と呼んでいたのですが、多くの人は自分にもこの火種があるとは信じていません。
ある特定の限られた特殊な人物だけがこの火種をもっていると勘違いしてしまっているのですね。
むろん、この火種は、特別な人にだけ与えられるものではありません。
むしろ、一人一人のなかにある火種が個性的なオリジナルのものだからこそ、それは特別な火種になるのです。
思想家のサティシュ・クマールは、「アーティストが特別なのではない。一人一人が特別なアーティストなのだ。」と語りましたが、これは本当に素敵な表現だと思います。
僕たちは、この世界で唯一無二のアーティストであり、自分に眠るありのままの火種に火を灯し、その命を燃やすことで、輝きと熱を生み出す創造的な人生を歩むことができるのです。
僕の奥の方
熱は量を増して
途切れず加速して
光を目指して
輝いているあの人にも
見えない涙がある
走り続ける僕の胸に
熱い命がある
駄目な自分を愛せはしない
強く生まれ変われ
やると決めたら背伸びはしない
体ひとつでぶち当たれ
太陽の光が届かない暗く冷え切った窮屈さでいっぱいの部屋に閉じこもり、我慢と恐怖を火種に弱々しい火を灯しながら生きることもできます。
一方で、たくさんの変化がある可能性が無限に広がっている世界で、ありのままの心に灯した熱く光り輝く炎をたよりに、力強く自分らしい人生を歩き続けることもできます。
どちらを選ぼうとも、それは自分の選択です。
誰に非難されても、それが自分の選択なのであれば構わないと思います。
命を燃やし、強くしなやかに走り続ける人生を生きることは、この時代にこの場所で生を受けた自分の体と心を、最大限に堪能し活かしきる術でもあります。
僕たちは、自分の強さと向き合いそれに磨きをかけ輝かせることで、自分と周りの人々を明るく照らし暖める存在として生きることができます。
その過程で、強い炎というものは本当はどのような炎で、その炎を心に灯して生きることの持つ大いなる価値に気付くことができるようになるのでしょう。
この曲のタイトルにも使われている「brand」という英語には、「燃えさし」という意味と、家畜や罪人に押す「烙印」という意味の二つがあります。
CHARCOAL FILTERの奏でる「Brand-New Myself~僕にできること」という曲は、僕たちが、不名誉な罪人や家畜や失格者の烙印を押されるという意味での「brand」ではなく、「燃えさし」「火種」「ともしび」という意味での「brand」において新しい自分を創り続ける人生の尊さを、真っすぐなメロディとともに感じさせてくれる、時代を超えて歌い継がれるべき名曲だと思います。
※このコラムの内容は、あくまでもマズロー心理学という眼鏡をかけた目で見た個人的な解釈であり、この曲の作り手・歌い手・演者の方々が込めてくれたメッセージの感じ方の一つです。